ババのサマーディ(墓所)にお参りしました No.2

◆無我・無心と言っても何段階もある
深い瞑想やサマーディを体験した人は知っていますが、無我・無心と言っても何段階もあります。
初期段階の「光と至福・ワンネスの体験」程度の事なら私が17歳の時に体験しました。
それもまた無我であり無心でしたが、ヒマラヤで修行中に何度も体験した遥かに上の「光と至福・ワンネス」の世界、そして最終サマーディであるニルビチャール・サマーディを成就した時に、釈尊の語る無我は、サマーディの光りのステージ、即ちエンライトメントのステージの遥かに上のステージだと分かりました。
エンライトメントさえ体験してない方が「ヨガは真我というが仏教は無我だ」等と知りもしないくせに得意げに語るのを見ると、元仏教研究者だった私は複雑な思いに駆られます。
何故なら私もサマーディ(ニルヴァーナ・解脱)を成就する前は同じように言っていたからです。
そうしたことがすべて宗派主義に基づいた妄想だと知るまでは、仏教はヨガより上だとか、大乗は小乗より上だとか知りもしないくせに語っていたからです。
北伝仏教(大乗)には北伝仏教の良さがあり、南伝仏教には南伝仏教の良さがあります。
ヨガにはヨガの良さがあります。
無我や無心は素晴らしいものですが、真我の状態の無我がエベレストの頂上とすれば、私が17歳の時に体験した初期段階の「光と至福・ワンネスの体験」における無我や無心の状態はせいぜい1mくらいの高さです。
因みに、ヨガスートラではサマーディの第二段階が光のステージ、即ちエンライトメントだと記されていますが、ババによればこれは方便です。
本当はサマーディの第一段階がエンライトメントです。
サマーディにおける高い次元の「光と至福ワンネスの体験」即ちエンライトメントでさえ、真我における無我に比べれば遥かに下位に属します。
真我における無我は遥かに高い世界です。
ヨガスートラによれば、サマーディは四段階ありますが、第四ステージのニルビチャールサマーディを成就して、プルシャ(純粋観照者)に至り初めてより高き無我である真我に至ります。
しかもそれでも最終ゴールではなくサンカルパ(意志)の力で何時でもどこでも各段階のサマーディに往き来出来るようにならなければなりません。
これは容易なことではありません。
釈尊(お釈迦様)がブッダガヤで成就したニルヴァーナがニルビチャールサマーディだとババは教えてくださいました。
ブッダが過去世からの修行の結果、わずか六年で成就したサマーディにいつでもどこでも瞬時に往き(還る)、瞬時にこの世界に帰ってこられるサンカルパ・サマーディーヨギのステージの存在を教えていただきました。
仏教ではこのステージが神話的に語られています。それが如来←→如去です。
◆ 仏陀(覚者)と如来←→如去のステージは全く違う
仏教では仏の十号と言って仏陀(覚者)の特徴を表す十の呼び名があります。
その呼び名では、仏陀・ブッダ(仏)と如来を同等のステージとして表現していますが、実は、全く次元が違います。
中国翻訳層はブッダを覚者と翻訳しました。しかし、ニルヴァーナを一度体験しただけの覚者と、ババのようにいつでもどこでも瞬時にニルヴァーナの世界に往き、且つ又、この世界帰ってくることが出来る如来←→如去のステージは全く次元が違うものです。
如来とは真如(真実の世界)より来生(らいしょう)する存在で、いつでもどこでも真如(真実の世界)に還れる存在です。
つまり、釈尊がブッダガヤでサマ・サマーディを達成した、その世界に何時でもどこでも瞬時に去り(往き)瞬時に来生(らいしょう)出来る存在が如来←→如去なのです。
如去は真如(真実の世界)に去る、つまり往く存在です。
如来は真如(真実の世界)より来生(らいしょう)する存在です。
如来と如去はセットなのです。
世間で解脱したとか如来だとか主張する方は多いようですが、それでは今すぐ真如(真実の世界)に往ける方はいらっしゃいますか?
いたら私の前で実証してください。
それなら貴方が如来←→如去だと認めましょう。
私もそこまでは到達していません。
ババは瞬時にサマーディに往き来出来ることを私の前で実証してくださいました。
ババがサマーディに往き来する時、時空が変わり、オームの音が聞こえます。オーム音も我々が教えられている音とは全く違います。
自称覚者でこの事をご存じだった方は一人もいませんでした。その音をご存じならその方は本物の覚者です。
覚醒が起こった存在と、サンカルパ(意志)の力で何時でもどこでも覚醒できる存在が同じである訳がありません。
いつでもどこでも、サマーディ(ニルヴァーナ・解脱)に往き来出来るステージと、一度だけ起こったステ
ージが同じである訳がありません。
こんなことを知らない人たちが、経典の生半可な知識でヨガを批判するのを見ていると悲しくなります。
更に言えば、如来←→如去のステージに至っても終わりではありません。
そこから真我が独立する真我独存(カイヴァリヤ)は遥か彼方に在るのです。
こうした事を私はババやアヴァター様方から教えていただきました。
それは、私の体験と照らし合わせても合点がいく教えでした。
私はそうした教えをいただいた事で、1989年私に起こったサマーディがニルビチャールサマーディであったことを確信しました。
それ故、私は敢えて公開サマーディを行わなくてもいいと感じていました。
私の中ではどうしようもない生を営んできた私にサマーディが起こった事実に十分満足していました。
インドで生まれて初めて瞑想を始めた私は、罪悪深重の私がサマーディを成就できることなど夢にも思っていませんでした。私はまさに悪人正機の典型でした。
だから私が公開サマーディをしても
悪人正機の真実を知らない人たちから、過去の事を持ち出され、ジャッジされるのは目に見えていました。
人々からつまらないジャッジをされて大変な目に合うことは明白でした。
だから、私は誰にも何も言わずにヒマラヤで一人で瞑想する道を選びました。
毎日がサマーディの中で、言わば、極楽世界に在るのに、自分は賢いと己惚れている、無知で傲慢な人々から攻撃される茨の道を選ぶことは、あの当時の私にはできませんでした。
自分が何も知らないと悟った人は、自ずとソクラテスの言う無知の知、親鸞の愚禿の自覚を持つものです。
◆240日間不眠断食サマーディを貫徹する
私はこの後、公開サマーディの代わりに240日間不眠断食瞑想を貫徹しました。
私は、瞑想と表現してきましたが、それは高い次元の無心であるか神秘体験の連続だったので実際は、サマーディだったのです。
私は240日間、色々の種類のサマーディを楽しみました。
サマーディについて知れば知るほど秘密を守らなくてはいけないと痛感したので、私は迂闊に真実を話せなくなりました。
先述しましたように、私はババにお会いした1992年以来、ババとの会話を何度も録音させていただきました。
その録音には公開できない秘密が沢山語られていました。
例えば世界的に有名なマスターでも実際は覚醒していないという話もありました。
又は、名前は出せませんが、或る有名なマスターにサマーディに連れて行ってもらっただけの弟子は、完全な意味でのサマーディ成就者ではないというような話もありました。
ババは実名を挙げて語ってくださいました。
これを例えて言えば、ヒマラヤの頂上がサマーディの頂上だとして、自力で頂上に上った人と、ヘリコプターで頂上に行った人の見える景色は同じようで心的風景は全く違います。
ロッククライミングで命を懸けて頂上に上った人と、観光用ヘリコプターで頂上に連れて行ってもらっただけの人の見える景色は全く違います。
表面的には同じ風景でも心的風景が全く違います。
だからマスターにサマーディに連れて行って貰っただけの弟子は、修行を重ねなければ、時がたつにつれ堕落します。堕ちていきます。
人によっては金や権力、名誉欲に毒されていくこともあります。
過去世から修行を続けてきた方が覚醒した場合この様にはなりません。
お解りだと思いますが、こうした情報はこれ以上話せません。
出してしまえば世界のスピリチュアルワークに支障が出るからです。
貴方が覚者として帰依しているマスターが実は覚醒していないとか言えばどうなるでしょう?
貴方が覚者として尊敬している方が、
実はマスターに連れて行ってもらっただけで、自分では真如に往く力が無いステージだとか聞いたら失望するでしょう。そしてスピリチュアル世界に対して絶望するかもしれません。だからそんな話はするべきではないのです。
この場合、スピリチュアルと言う意味はポップでくだらないスピ系を意味してはいません。
真のスピリチュアルを示しています。
私はババばかりではなく、
ヨグマタジにも長時間のインタビューをさせて頂きました。
私がその当時宇宙意識体験と呼んでいた神秘体験を告白したらとても驚かれ、「それはサマーディね!間違いなくサマーディね!」と叫ばれました。
マタジと私はサマーディの秘密について語り合いました。
ババジとマタジへのインタビュー録音は私の宝物になっています。
◆偽マスターを輩出させない為に秘密は門外不出になる
世間にはサマーディ(ニルヴァーナ・解脱)を体験していないのに体験したと勘違いしている人が多いようです。
一番多いのは「我々はそもそも仏陀(覚者)である。それに気づいていないだけだ。気づけば覚醒する」などと主張する人達です。
仏教ではそういう考えを本覚思想と言います。本覚思想は仏教研究者でなくても誰でも知っている思想です。
成程、我々の本性が覚醒しているというのは事実です。
ババによれば、我々が胎児にいるときはサマーディ状態です。
しかし、大きくなるにつれてマインドに毒されサマーディ意識を忘れてしまいます。
さてそれでは胎児の頃のサマーディ意識に気づくにはどうしたらいいのでしょう?
気づくと言ってもマインドで気づくことではないのは明白です。
それなら「私は覚醒していたんだ。それに気づいたから私は覚醒したんだ」なんてことになり、エンライトを宣言した人が覚者ということになってしまいます。
実際、私はこれまで20人以上の自称覚者に出会いました。彼らにどのような覚醒をしたかと尋ねると「私は仏陀(覚者)だと気づいた。だからエンライトしたのだ」と言うのです。
でも彼らはサマーディ(ニルヴァーナ・解脱)の秘密を何ひとつ知りませんでした。まるで漫画です。
彼らは気づくということをマインドで気づくことだと勘違いしています。
それは気づきと言わずに妄想と言います。
マインド以外で気づくことが真の気づきです。その気づきはどういう時に起こるのか?
それはサマーディを成就した時に起こります。
ニルビチャールサマーディなら肉体(粗大身)は死んで、宇宙の根源に還った時に気づきます。
それは超意識を遥かに超えた気づきです。
それを体験したなら宇宙物理学でも明らかになっていない、ブラックホールやホワイトホール、ワームホール、クンダリーニやチャクラの真実を知っているはずです。
そして宇宙物理学の問題は量子力学で解けることを知るでしょう。
ヒントは梵我一如が語る真実です。
皆さんが知っているクンダリーニは、ただのエナジーであり、チャクラはただのエナジーセンターです。
それは気と経絡のような関係です。
真のチャクラとクンダリーニの関係とは似て非なるものです。
中国人はヨガのプラーナ、チャクラ、クンダリーニ等、深遠な哲理を理解できませんでした。
だからそれらをエーテル体レベルの気とか、経絡とかに当てはめて理解しました。
でもそういうことではないのです。
沢山の人がクンダリーニが詰まっていると覚醒できないなどと仰っていますがそうではありません。
クンダリーニが詰まることなどあり得ません。
クンダリーニではなくエナジーが滞ることはあります。
スシムナーの滞りが無くなって初めてクンダリーニが出現します。
中国人がクンダリーニと誤解した気エナジーのつまりが無くなって初めてクンダリーニが出現するのです。
真の気づきが起こるのは、仏教で言えばニルヴァーナを成就した時です。その時、初めて我々が仏陀(覚者)だと気づくのです。
それはマインドの知覚ではありません。
知覚は六識の範疇です。
マインドの範疇です。
瑜伽唯識で言えば、七識の末那識や
八識は知覚を越えた世界です。
気づくと言いましたが本当は気づきではなく、「在る」ことなのです。
マインドフル瞑想で語られる気づきは大事なことで悪い事ではありません。
しかし、サマーディにおける気づきとは似て非なるものです。
ついでながら申しますと、ティク・ナット・ハンさんの気づきの概念は日本の禅の考えに近いです。
先日上座部仏教を信奉している方のブログを読んだら、大乗仏教を批判して上座部仏教の優位性を説いていました。
その方はティク・ナット・ハンが大乗(北伝仏教)だと知らずに、ティク・ナット・ハンの主張を援用して大乗(北伝仏教)を批判していました。
ところが、ベトナムの仏教は東南アジアでは珍しく大乗仏教なのです。
その方は専門教育を受けてないので初歩的な間違いを沢山しています。その方の大乗仏教やヨガなどの批判は研究者の目から見れば全くの素人談議です。
私は学者の世界の駄目さも知っていますが良さも知っています。
学者は研究対象については素人さんには及びもつかないほど時間をかけて研究しています。素人が付け焼き刃で彼らを批判してもすぐに馬脚を現すのがオチなのです。
生半可な知識でヨガを批判するのは止めて、もう少し他の宗教に対してもリスペクトして欲しいと思いますね。
さて真の気づきとは、即ち、釈尊(お釈迦様)と同じステージに還った時に起こるものです。真の気づきとは知覚ではなく「在る」ものです。
「私はブッダだと気づきました。
だから私は覚醒しました」
などとマインドで気づくことなどあり得ません。それはまったくのナンセンスです。
ところがそういうことを平気で信じている人が多いのです。
そう言えばハードルが低くなるので信者を集めやすいと思っている偽マスターもいます。
そう言えば、どこかのマスターがこう仰っていました。
「類は友を呼ぶと言います。霊性の低い人達は霊性の低い人達で集まるものです」
偽マスターに真実のすべてを明かせば、際限なく偽マスターを出現させてしまいます。
彼らは真のサマーディ体験をしていないので、知識だけの頭でっかちになっています。
或る宗教研究者が言っていましたが、彼らの知識は、研究者の方々の目から見れば仏教やヨガの初歩的な理解さえできていないので、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまうそうです。
偽物は覚者から教えられた知識だけを振り回し、信者を作ろうとします。
それはとてつもなく空しい作業であり人々を迷いの道に導く悪行です。
そういう偽マスターの出現を防ぐ為に経典には真実のすべてが書かれていないのです。
真の経典には真のサマーディ成就者だけが分かるようなトリックが至る所に仕掛けられています。
トリックがない場合、覚者(=仏陀)は曖昧模糊とした答えを示す場合もあります。
例えば、釈尊がニルヴァーナとは何かと問われたとき「それは蠟燭の火を消したような状態だ」とお答えになりました。
この表現は曖昧でどうとでも取れるものです。
何も言っていないに等しいような表現です。
だから釈尊は覚醒していなかったと批判する人もたくさんいました。
私は、釈尊がブッダガヤで体験し、サマ・サマディ(真のサマーディ)と名付けたサマーディは本物だと知っています。
だから、釈尊があのように答えた理由は偽マスターの出現を抑止するためだったと理解しています。
然しながら、釈尊は覚醒した弟子たちには真実のすべてを話したはずです。禅で教外別伝・不立文字と言いますがその謂いは正しいです。
◆240日間不眠断食サマーディを240日間不眠断食瞑想と表現し続けた理由
このように覚者はサマーディについては、言いたくてもすべてを言うわけにはいかない事情があります。
だから私は240日間不眠断食サマーディ(ニルヴァーナ・解脱)を240日間不眠断食瞑想と表現してきました。
そのように言わないとヘッドばかりで瞑想が出来ない無明の人からくだらないジャッジをされるからです。
彼らは覚者から学ぶことを知らずに、
どうでもよい事で難癖をつけたがります。
重箱の隅をつつくようなどうでもいい事でクレームをつけてきます。
彼らは覚者の粗さがしばかりして、
覚者のエナジーを受け取ることを拒否します。
実に勿体ないことです。
そういう訳なので私は時が来るまでサマーディ成就の事実を明かさないで来ました。
以前、一部の人たちに明かしたことがありますが、ババにお会いしたのにババの元から去った人たちは単に覚者に会う準備が出来ていなかっただけです。
ババは私にそう教えてくださいました。
しかし、色んな篩分けが起こった後に徐々に準備が出来ている人々が集まってきました。
それで今、時が来たので、私は、240日間不眠断食瞑想を240日間不眠断食サマーディと表現し直したのです。
しかし、内容的には240日間不眠断食瞑想はサマーディであることが解るように書いてきました。
瞑想性のある人は不眠断食瞑想の内容がサマーディであることに気づいてきました。
何故なら240日間不眠断食瞑想の内容について私はこう説明してきたからです。
「240日間不眠断食瞑想中、私はずっと無心でした。無心でない時は「光りと至福ワンネス」の程度の体験なら、1秒か0.1秒に一回くらいは起こってきた」
サマーディ成就者ならこの意味が分かります。
サマーディ成就者でなくても瞑想性の高い方なら解るはずです。
無心はサマーディです。
無心は禅宗の定義では悟りです。
実は悟りと言う概念はニルヴァーナの中国的理解です。
丁度、プラーナや、クンダリーニやチャクラを中国人が理解できずに気と経絡のような関係として理解したようなものです。
そのことは、サマーディを体験した方ならずとも、一部の研究者も気づいてきました。
でも私は禅の深さと高み、真摯さをリスペクトしています。
悟りとニルヴァーナというものが違うものだと知って、鬼の首を取ったかのようにジャッジする研究者もいますが、ご本人が大した体験もしていないし、理解もしていないのだからもう少し謙虚であって欲しいと祈っています。
無心と言っても何度も申しましたように何段階もあります。
初歩的な「光と至福・ワンネスの体験」程度でも無我であり無心であります。
それは初歩的な光のステージです。
真の光りのステージはさらに先に在ります。
実は、真の光りのステージでさえサマーディのスタートラインに過ぎないのです。
少し説明しますね。
ババは光が物質を作ると教えてくださいました。同じことをニコラ・テスラも言っていました。
そうなのです。光りは物質を作ります。光には色(ルーパ)があります。だから色は物質と訳されているのです。
光りが無ければ色は見えません。
そして、もう一つ隠された真実があります。光りは暗闇から発生するのです。
光りは暗闇から発生します。
暗闇は無です。
アカーシャ(虚空)です。色即是空と言われる所以です。
この真実を知っている方はこれまで数えるほどしかいませんでした。
真実を知らずに色即是空を語り、或いは、色即是空の理法を南伝仏教の立場から机上の論理で批判している方は最近多いようですが、批判ごっこは止めて、 24番目のアヴァター様としてヒマラヤのアヴァター様達に認められている、マハヨギ・パイロットババジ猊下のような、真の覚者(=仏陀)の仰ることを聞いていただければその方々の霊性は深まることと思います。
色が物質と翻訳される本当の理由を知っている方はサマーディ(ニルヴァーナ・解脱)を体験した方だけです。
彼らは仏典やヨガ経典を体験の根拠にしていますが、経典自体がトリックを仕掛けているのを知りません。
だから多くの人たちがトリックに引っかかっている事さえ知らず、経典を語っています。
だから真の覚者(=仏陀)から見れば笑ってしまうような観念的な論理展開をしています。彼らは気づいていないけれど彼らは至る所でボロが出ているのです。
そのトリックを知っている人が真のサマーディ成就者です。
◆仏教の三界観
仏教ではこの世界を欲界・色界・無色界の三界として説明します。
欲界(梵: kāma‐dhātu)は、欲望(カーマ)にとらわれた淫欲と食欲がある衆生が住む世界です。
欲界は無色界および色界の下に位置します。
『倶舎論』においては「五趣」(5つの生存状態)地獄、餓鬼、畜生、人、天の5種の世界が欲界に属するとされています。
気を付けて欲しいけど、天とは神々の世界ですよ。仏教においては
天でさえ、三界の一番下に位置されているのです。
さて、先述したように、色(ルーパ)とは物質と理解されています。
天を含む欲界よりも色界、即ち、物質が上というのは変なことだと思いませんか?
そうなのです。色界は単なる物質世界ではないのです。
エンライトの世界は色界だと考えれば分かりやすい。
エンライトメントのさらに上の世界が無色界です。
しかし、それさも最終ゴールではないという捉え方はサンキャ科学と似ています。
無色界といっても色がないわけではありません。
でもこの事がどういうことかは秘密にします。
貴方が本当に覚醒しているのなら悟る(わかる)はずです。
真の覚者(=仏陀)は経典に書かれていない真実を知っています。
解脱したと勘違いしている人たちは
経典に書かれた事しか知らないし、経典に書かれたトリックにも気づいていません。
至上の無心はプルシャ(純粋観照者)です。
それはこのマーヤの世界を作ったブラフマンからさえ離れた真我独存の状態です。
◆私は宗教がお互いを批判しあうのではなく、お互いをリスペクトすべきだと確信しています。
ババは「ワールドピース・キャンペーン」「ガイア保護」「人類覚醒のワーク」の為にそれぞれの宗教をリスペクトするように教えてくださいました。
ババはシヴァ派に属するので、挨拶はOm Namo Shiva eです。
ところがババはビシュヌ派の挨拶であるOm Namo Narayaを採用しています。
そのような形で互いの宗教をリスペクトするように薫陶してくださっています。
又、ババの生誕地であるササラン王国にアシュラムをお持ちですが、そこには大仏が建立されています。
これはキリスト教の教会に大仏を建立するようなものです。
この様にしてババは宗教対立から宗教和合を説くだけでなく、それを実践されてきました。
ババは「インド2000万聖者の最高峰」「現代の仏陀(覚者)」と称賛されていました。
それはババが釈尊(お釈迦様)と同じように王子として出生されたにも関わらず、成人後、突然発心され修行者になり短期間で覚醒されたからです。
その上、ササラン王国はかつて釈尊が修行して覚醒したマガダ国の領地と重なるのです。
ササラン王国はかつてインドの首都だったことがあると聞いています。
だから「現代のブッダ」という呼称は決して大袈裟ではないのです。
そのババは「世界平和・母なる地球の保護の為に人類の覚醒を願うワーク」をされていました。
宗教は平和を求めているはずです。
それなのに、宗教によっていがみ合い戦争の原因になってきた歴史があります。
例えばユダヤ教、キリスト教、イスラム教という兄弟宗教の対立は第三次世界大戦を引きおこしかねません。
この事を自覚してきた宗教者たちは世界中で世界平和のスローガンを打ち立ててきました。
インドでも宗教対立を越えてそれぞれの宗教が世界平和の為に団結する機運が高まっています。
今回、我々はインドのグジャラート州で開かれたサントサミティに招待されました。
そのサミティーはインドのアカラと呼ばれる聖者の最高指導者様であるマハマンダライシュワールの集まりです。
この記事はこの後投稿します。
Om Shanti Shanti Shanti (愛と平和を!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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