私は親鸞の教えに感動して仏門に入りましたが、それ以前は無神論者でした。それが良かったのです。その考えが私を「偽宗教」から護りました。
私は「組織主義的偽宗教」にはうんざりしていました。偽物の宗教が嫌いだったからこそ、本物に出会えた喜びは大きかったのです。親鸞さんの教えだからこそ、私は得心できました。親鸞さんとの出会いが遠因となり、私はインドで和尚Oshoと出会いました。
最初はタントラ的瞑想や各種セラピー的瞑想もしましたが、すぐにスートラ瞑想の世界に入りました。それがサマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想です。
サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想は、同じく「観る瞑想法」です。両者を合わせて止観と言います。止観と言えば摩訶止観が有名ですね。
「止」はサマタ瞑想とも言われ、こころを一点に集中して禅定・サマーディ(三昧)の境地を目指します。「観」がヴィパッサナー瞑想です。
天台大師によれば、以下のとおりです。
「”止”とは一切の迷いから離れた究極の精神状態である禅定のことであり、”観”とは迷いを生みだす心そのものを冷静に観察する智慧のことである。」
(天台寺門宗別格本山鶏足山金倉寺「天台宗と座禅」より引用)
しかし、昨今流行りのヴィパッサナー瞑想は大分ポップ化しています。例えば眼を内観したら、視力が0.3から1.5になったという人もいます。視力がよくなるのは良いことですし、生をよりよく生きることは問題ないです。ただそれがポップ化すると、本来の目的とは違ったものになります。
サマタもヴィパッサナーも目標はサマーディー(ニルバーナ)です。生死を超えた世界に還ることです。迷妄の世界を楽しく生きるだけで良しとするものではないはずです。あくまでも、生というマーヤ(幻想)、死というマーヤ(幻想)を超えた世界に還ることが瞑想の目的です。
仏道は生死を超えた世界に還る道の筈です。生をよりよく生きるためだけではなく、後生において輪廻転生、即ちバーチャルリアリティーが物質化したようなマーヤの世界から転生することが、輪廻する悪夢の世界から解脱することが、真の瞑想の目的です。
真の覚者は夢の中でのより良き生活を夢見ることを勧めているのではありません。
この世界が一切皆苦と悟り、解脱(モクシャ、完全な自由)することを勧めています。
『ヨーガ・スートラ』の第1章2節には「ヨガとは心の作用を止滅させることである」と書かれています。そのとおりです。それがサマーディーを成就する道です。
◎貴方に準備ができていれば、必ずマスターが現れる
私は1988年当時バグワン・シュリ・ラジニーシと名乗っていた彼に、Oshoという新名を提案しました。そして、その名を提案した1ヶ月後にOshoラジニーシという名前が採用されました。
そういう事情もあり、私はOshoをとても愛していました。だから、Oshoの死後も他のマスターに師事する気はまったくありませんでした。
ところが、存在は私をOshoへの執着から切り離し、新しいマスターに邂逅させました。それがマハヨギ・パイロットババジ猊下です。
Osho自身も「私の死後、貴方が覚者に会ったのなら、迷わず師事しなさい」と言っていました。
それはそうでしょう。例えば幼子を持つ親がいて、病気で死のうとする時「私が死んだ後も、他の親のところに行かないでくれ。餓死してもいいから一人で暮らしなさい」と言ったらどうでしょう?ここまでくれば、人ではなく鬼です。覚者がそのようなことを言うはずが無いのです。
又、亡き父母への愛が故に、他人の助けを拒否する子供はいないでしょう。
リビングマスター(生きたマスター)の存在は大きいのです。貴方が真の求道者なら、リビングマスターと出会って拒否するはずは無いのです。マインドでマスター巡りすることと、魂の要求に従って新しいマスターに出会うことは、全く違います。
縁は不思議なもので、私はタントラの道を離れ、スートラの道に進まされました。
私は頑固な人間なので、一旦こうだと決めたら中々考えを変えません。すると、存在はあの手この手を使って、私のエゴを粉砕する状況を創出して、私をヒマラヤに導きました。存在は、信じがたいほどの偶然を私に用意してくださいました。偶然に次ぐ偶然をプランニングして、私をババジ猊下に導きました。
かつては無神論者であった私が仏門に入り、タントラ瞑想の世界に入り、最終的にはスートラの世界に入ったのは、大いなる意志によるものでした。
そして、半身不随になったことを契機として私が普通の生活に戻ったことも、大きな流れに従ってのことでした。私は常に大きな流れに従って生きてきました。
善導大師が『法事讃』で「仏に従ひて逍遥(しょうよう)して自然に帰す」と述べています。
逍遥とは、あちらこちらをぶらつくことです。仏の大きな力に従って、あちこち行かされ、最後は自然(じねん)に帰すというのです。まさに私の人生そのものを表わす法句です。
ここで重要な事は「仏に従ひて逍遥して」というところです。「マインドに従い」ではありません。マインドに従ってあちこちのグル巡りをする人と、仏に従いグルに邂逅する人とは、全く違います。
反対に「私は一人の師しか持たなかった」と自慢する人もいますが、マインドで「武士は二君に仕えず」みたいな感覚でいう人は、グル巡りをする方と同じです。それは同じコインの裏表に過ぎません。共に仏に従っていないから同じなのです。
私はヒマラヤでババジ猊下にお会いして、猊下が”12000年秘密のクリヤヨガ”を継承し更に発展させたサンカルパヨガを教えて頂き、猊下の教えが今まで聞いたこともなかった深遠で高邁な真理であること知りました。実に有り難い仏のお導きでした。
◎スートラの道とタントラの道
ここで、スートラとタントラについてご存じない方のために簡単に説明いたします。
スートラとはサンスクリット語です。パーリ語では「スッタ」と発音されます。スートラは中国で修多羅(しゅたら)と音写されました。修多羅は経典を意味します。
経典は縦糸で閉じられているので、スートラは経(たて)であると言われます。経という字は縦とか竪という字と一緒です。地理で経度、緯度と言いますね。経度は縦の南北を示します。緯度は横の東西を示します。
スートラの道は一段一段と段階を経て「竪(たて)に超える道」なので、親鸞さんは竪超(じゅちょう)と呼んでいます。非常にストイックな修行者の道です。ヒマラヤの修行者の道は、典型的なスートラの道です。
親鸞さんは「華厳・天台・真言・禅宗」が典型的なスートラの道だと言っています。普通に考えれば、真言宗は典型的なタントラの道です。真言密教の『理趣経』は完全なタントラ経典です。親鸞さんも『理趣経』を大分研究しています。それでもタントラではなくスートラだと断じたのは、「千日回峰行」「護摩法要」「即身仏」などの行法があるからだと推測します。実は、これらの行法はヒマラヤから来たものなのです。
ただし、即身仏は死んでミイラになる行ですが、公開サマーディーは呼吸、心臓、脳波が停止して肉体は死の状態となり、サトルボディー(微細体)でサマーディー世界(真如、真実の世界)に往き、死の世界には行きません。だから、真如の世界から来生(らいしょう)することができます。真如の世界から来生する仏陀を如来と言います。反対に、真如の世界に去る仏陀を如去と言います。
ババジ猊下が公開サマーディー中にサマーディー世界に去るときが如去で、還られる時は如来です。如来←→如去はセットなのです。
これに対して、タントラは「横に超える道」なのです。横は「横柄」という字が示すように我儘にという意味です。「我儘に超えて行く道」というのです。面白い表現ですね。
親鸞上人の『正信偈(しょうしんげ)』に「獲信見敬大慶喜即横超截五悪趣」という偈(詩)があります。偈とは偈陀(げだ)の略語です。偈陀とはサンスクリット語の「gāthā」を音写したものです。伽陀(かだ)と言う字にも音写されました。Gatha(ガータ)はGita(ギータ)と関連する言葉だそうです。因みにギータも詩という意味です。
余談ですが、ギータと言えば、ヒンドゥー教の叙事詩『マハーバーラタ』に収められている『バガヴァッド・ギーター』を思い出す方も多いでしょう。バガヴァッドは神を示します。バグワンと同じ意味です。ですので「神の詩」という意味になります。
横超思想の話に戻ります。東本願寺の公式ホームページで親鸞さんの『正信偈』をあげて「横超思想」を簡単に説明していますので引用致します。
「親鸞聖人は、「即横超截五悪趣(そくおうちょうぜつごあくしゅ)(すなわち横(よこざま)に五悪趣を超截す)と詠っておられるのです。
(中略)
この「横」と「超」とを合わせた「横超(おうちょう)」という言葉があります。これは親鸞聖人が独特の使い方をなさったお言葉です。「横超」というのは、順序や段階をまったく経ないで、一挙に横っ飛びをすることです。
(中略)
一切の段階を飛び越えて、一挙に目的に達するという見方です。迷いの凡夫が、難題を一つ一つ解決して、徐々に仏の境地に近づくというのではないのです。凡夫が凡夫のままで、仏に成るのです。
本来は、仏でないのを凡夫といい、凡夫でないのを仏というのです。ところが、凡夫が一挙に仏に成るのです。浄土往生にふさわしくない者、往生できるはずのない者が、実は往生するのです。このような不思議なことがどうして起こるのでしょうか。
それは、常に私どもにはたらきかけている阿弥陀仏の本願の力によるのです。私どもの常識では説明のつかない、大慈悲のはたらきによるのです。
先の「竪超(じゅちょう)」は、自分の力を頼りにしています。自分の努力を信頼しています。しかし、自分の力が信頼できなくなれば、一体どうするのか。「いずれの行(ぎょう)もおよびがたき身」は、阿弥陀仏の願いという他力にお任せする以外に、なすすべはないのです。本願力にお任せするときに、「横超」ということが起こると教えておられるのです。」
(東本願寺正信偈の教え第27回より引用)

◎「ヒマラヤ聖者の道」と「煩悩具足の凡夫の自覚の道」は、私の中では何も矛盾しない
私はヒマラヤで「240日間不眠断食座禅」という、アシュラムではババジ猊下以外誰もがなし得なかったような難行を貫徹しました。
私は瞑想を始めてすぐに無心になりました。氷点下のヒマラヤで断食して一日23時間以上座禅すると、無心にならなければ苦しくて仕方ありません。だからすぐに無心になりました。
無心で苦しくなかったので、本人的には全く難行だと思っていませんが、世間一般の人からすれば確かに難行でしょう。その難行の為に私は達磨大師のように半身不随になり、後3ヶ月の命と猊下や医者に言われました。それなのに奇跡が起こり歩行できるようになり、3ヶ月の命だったはずなのにあれから20年も生かされてきたのは、猊下とアヴァター様達の不思議な力のお陰です。
私を生かしてくださった理由は、時がきたら私を「衆生済度」の利他行に向かわす為だと理解しています。
2018年の8月に突然総てが変わりました。何の前兆もなく、私の大きなカルマが突然落ちました。すると、それを待っていたかのようにババジ猊下にご縁のあった方からサンカルパヨガを教えて欲しいと頼まれ、熊野ミニリトリートを開き、私が指導しました。
私は流れの中で、猊下やアヴァター様達、ヨグマタジ(相川圭子師)、太母(たも)様にサマーディー成就を認められたことを宣言しました。
しかし、私は現在、半身不随すれすれなので、以前のように長時間座ることは不可能な身体になりました。日本で身体を治すのに長い時間がかかりました。
それ故、私は「ヒマラヤ聖者の生活」ではなく、「普通の生活」に戻りました。普通と言っても信仰心はあります。「煩悩具足の凡夫」を自覚して、尚且「聖なる存在をリスペクトする道」に方向を転換しました。
煩悩具足の凡夫を自覚して怠惰な道に進むのではありません。煩悩具足の凡夫だと自覚すれば、必然的に神聖なるものと同化しようとします。
それが解っていない人間は「自分は駄目な男です」などと口先だけの反省をして聖なるものを求めず、怠けて自堕落に生きます。こういう人は何十年生きても、1ミリも進化しません。
私はヒマラヤ修行時代のような難行苦行はできない身体になっています。でも、サマーディーのスペースは今でも私の中に在ります。
私はかつてのように修行できないことを自覚していますので、過去の栄光に浸り、増上慢に陥らないようにするために、煩悩具足の凡夫の自覚を大事にしているのです。
浄土宗の教えでは、それを「機の深心(じんしん)」といいます。機とは衆生、人間のことです。深心とは深く信ずる心です。
「深心とは深く信ずる心として二種に開いている。ここに一にはとあるのは、自身には迷いの生死を出る手掛かりがまったくないということを深信するので「機の深信」という。二には、このような者を救うために阿弥陀仏は本願を建立され衆生を済度しつつあることを深信するので「法の深信」という。」
(参照:WikiArk二種深信)
http://labo.wikidharma.org/index.php/二種深信
このように人が思う時、人は覚醒に対する渇きを生じます。覚醒に対して渇きを覚えない者は覚醒に程遠いのです。
このような者を救うために阿弥陀仏は本願を建立されました。弥陀の本願と自己が一体になるということは他の言葉で言えば「神我一体」です。
教学的にはややこしいことをいうけれど、瞑想していて悟ったことは「自力を捨てて、他力(仏力)に帰す」ということは、マインドという自力を離れ仏そのものになるということです。
普通、こういう状態は解脱といいます。他力に帰すには、自力を捨てることです。自力が捨てられれば、無心になります。無心も深まれば、仏心にいたります。それを他力の世界と言います。
私にとってダルマ(法)とは、阿弥陀仏であり、ババジ猊下であり、ヨグマタジであり、私の中の神です。内在神です。
私一人では何も出来ませんが、猊下やヨグマタジが衆生済度の為に全身全霊でワークしてくださっていると深信すれば、勇気を与えられます。
貴方がヒマラヤのアヴァター様たちと繋がれば、貴方のマインドには想像できないような力をいただけます。機の深心、法の深心とは、簡単に言えばそういうことなのです。
詩人の金子みすゞさんは、ダルマとは何であるのか洞察し、素晴らしい詩を創っています。
「蓮と鶏」
泥のなかから
蓮が咲く。
それをするのは
蓮じゃない。
卵のなかから
鶏が出る。
それをするのは
鶏じゃない。
それに私は
気がついた。
それも私の
せいじゃない。
そうです。内側にある自然(じねん)、それが仏陀と呼ばれたり、神と呼ばれたりするものです。仏性とも呼ばれます。親鸞さんは「自然法爾(じねんほうに)」と仰いました。
勿論、学者はそれぞれの概念の違いを指摘するでしょう。申し訳ないけれど、そんなことはどうでもいいのです。アートマン(真我)をノンアートマン(無我)と言っても覚者は驚かないのです。釈尊(お釈迦様)の真意を知っているからです。
ヨガでは自然(じねん)は「プラクリティー」と呼ばれます。ヨガでは、純粋観照者がプラクリティーに出会った時に宇宙を展開(創造)すると言います。
猊下は私に教えてくれました。「神も又、プラクリティーの産物だ」
まあそうでしょう。マーヤというビデオゲームの世界に登場する神もまた、そのキャラクターの一つです。神を含め、この宇宙はマーヤです。でも覚者はそれを知っても悲しみません。驚きません。
この話は、量子力学での観察者と量子の関係にそっくりです。ヨガでは、観察者に合わせて自然がそれぞれの宇宙を創生すると理解しています。
猊下によれば神もまたプラクリティーの産物です。神が自然を創るのではなく、神もまた自然の産物です。古代人の神話に辟易している人は、理神論的なヨガの自然観には納得できるでしょう。神話は古代人の幻想です。
◎覚者に対する幻想
私を「ヒマラヤ聖者」だと勝手にイメージして、「会ってみたら普通の人間なので、幻滅した」と失望させても申し訳ないので、ここではっきり申しあげます。
私は普通の生活をしている普通の人間です。ただし、内側にサマーディーのスペースは持ち続けています。
私は、ババジ猊下やヨグマタジを心の底から尊敬しています。だから「ヒマラヤ聖者の道」を否定はしません。その点は、難行苦行を一応否定した親鸞さんとは少しスタンスが違います。
私は難行苦行を否定しません。ヒマラヤでの体験で、難行苦行には意味があることを知ったからです。
勿論、親鸞さんは「いずれの行も及び難き身なれば」と断っているので、単純に難行苦行を否定したとは言い切れませんが、この問題は、極めて真宗教学的課題なので、ここではこれ以上追求しません。
◎現在の日本でヒマラヤ聖者の道を実践できる人間は数少ない
私は、ババジ猊下やヨグマタジのように「ヒマラヤ聖者の道」を貫き通したかったのですが、身体的理由もあって私には出来ませんでした。
私に出来ることは、ヒマラヤ聖者の道に進むべき素質のある人を発掘して、猊下やヨグマタジに紹介して、原石を磨いて頂くことくらいです。
しかし、物質文明に汚されきった現在の日本人に、ヒマラヤ聖者の道を歩める方はごく少数です。ヨグマタジのような偉大な存在には、中々出会えません。
ヨグマタジと私を除けば、24時間微動だにせず座りきれた人は、今まで数人しかいませんでした。
私は断食しながら24時間から72時間座禅しました。勿論寝ることはありません。深い瞑想は睡眠とは比べ物にならないほど休息します。だから寝る必要はありません。
それを240日間座り続けました。8ヶ月間、冬のヒマラヤで座り続けました。
修行者の世界は実力主義です。一日24時間程度も座れない人にジャッジされても、覚者はなんとも思いません。先ずは、たった一日でいいから座りきって欲しいのです。それも出来ない人が何を批判しても覚者は一顧だにしません。
世間にはヨグマタジをジャッジする人がたくさんいます。ヨグマタジをジャッジする人は、ヨグマタジが達成したステージには程遠い人が殆どです。中には霊性が高い人もいますが、殆どの人がヨグマタジを批判できるステージにはありません。ヨグマタジを批判できる人は、ヨグマタジが達成したステージに到達した存在だけです。
たかだか24時間も座れない人が、ヨグマタジをジャッジしているのを見ると、実に勿体無いことだと思います。ジャッジメンタルな人は、次から次と師を渡り歩きます。そして、結局何も得られません。ヨグマタジの救いの網から漏れるのは、実に勿体無いことだと私は思っています。
私は阿弥陀仏もリスペクトしますし、親鸞さんもリスペクトします。シヴァ神もリスペクトしますし、ババジ猊下やヨグマタジ、田母様もリスペクトしています。私はそういう自由な考えの持ち主なので、仏教教団を離れました。
同時に、自ら「ヒマラヤ聖者」と名乗ることも致しません。サマーディーを成就したことは認められていますので「サマーディー成就者」とは宣言しました。
とは言え、猊下やヨグマタジのように、何時でもどこでもサンカルパ(意思)の力でサマーディーに往き来出来る「サンカルパ・サマーディーヨギ」のステージには至っていません。
私は現在、普通の生活をしていますが、サンカルパ・サマーディーヨギに向かう道心は、未だに残っています。サンカルパ・サマーディーヨギへの道は捨ててはいませんが、座禅が出来ないので、今生でそれを達成することは難しくなりました。
余生は「私が体験したことをシェアする道」の方向になってきました。
◎覚者はこの世界が一切皆苦だと知って悲しまない
ヨガの教えに「覚者はこの世界が一切皆苦だと知って悲しまない」とあります。味わい深い言葉です。
覚醒した存在がマーヤの世界をマーヤだと知って悲しまないのは、マーヤから目覚めた世界、サマーディーとかニルバーナとか真如とか言い表される世界が素晴らしすぎて、それを体験できた喜びのほうが大きいからではないでしょうか?少なくとも私はそうでした。
私がサマーディー世界に帰った時、この世界がマーヤだと知って悲しむ気持ちなどまったくありませんでした。真如の世界に還った喜びしかありませんでした。
勿論、マーヤの世界に戻ってきたことを激しく後悔しましたが、この世界がマーヤであることを知ったので、悲しみはありませんでした。又いつか、真如の世界に還れることを確信したからです。
だから、私が猊下やヨグマタジに「貴方はサマーディーを成就した。しかし、サンカルパの力で何時でも自由に真如に往き来できるステージでは無い。これからも精進しなさい」と言われた時、悲しみは全くありませんでした。
反対に「もっと上のステージがあるのだ。光の体験も素晴らしかったし、宇宙意体験というサマーディー世界も素晴らしかったのに、もっと素晴らしい世界があるのだ!頑張って精進しよう!」と自然に思えたのです。
自分が体験したことが最高だと思えば、成長は止まります。自分はまだまだだと思える人間だけが成長できます。だから、貴方が何かを達成したとするなら、遠く過去世からの宿縁を喜んでください。しかし、そこに留まらず、さらに高い世界に進んでください。もし、貴方が覚醒したとしても、そこに留まらず先に進んでください!
自分の例を挙げます。
私は17歳の時、最初の光の体験をしました。私が「プレクンダリーニ覚醒体験」と呼ぶものです。光に還った体験をしても、私は自分がエンライトしたと勘違いしませんでした。私が無神論者だったからです。それが幸いして慢心に陥りませんでした。うまく出来ています。
おかげで、三度も光に還ることが出来ました。光の体験に執着しなかったからです。
二度目以降は、最初の光の体験より高い光の体験でした。
太母様が体験したような黄金の世界も体験しました。私がそこで満足していれば、更に上のステージには行けませんでした。
「私はまだまだだ。煩悩具足の凡夫なのだ」という自覚が、私をサマーディーに導きました。サマーディーは一生やそこらで達成できるものではありません。
現在は二極化が激しくなっています。
アセンションに向かう人と、救済の網から抜け落ち、闇の世界に堕ちる人たちの二極化が激しくなっています。
私の役割は「宇宙船地球号・弥陀の願船」の乗船チケットを持っている人々と出会うことです。或いは、乗船チケットを持っているけれど、それに気づかず闇の世界に再び堕ちて行く人々が本来の自己に気づき、アセンションに参加して頂くことだと思っています。
本当は総ての人々に気づいて欲しいのですが、光の世界を拒み続ける方に何を言っても、ノアの箱舟のノアを冷笑した人々のように受け入れてもらえないのです。残念です。とても残念です。
ババジ猊下や、ヨグマタジをジャッジする方は、チケットを持っていても、船に乗り遅れる可能性があります。覚者は総ての覚者をリスペクトします。覚者は過去世からずっと修行を続けてきたので、今生、覚醒しました。覚者をジャッジする方は、まずご自分のスペースを自覚するべきです。
私は今生の歴史で言えば、瞑想を始めて3ヶ月後にサマーディーを成就しました。”12000年秘密のクリヤヨガ”を始めて、僅か10分後にサマーディーを成就しました。
当然、私は自分を天才だと勘違いしました。そうした私に猊下はこう仰いました。
「サマーディーは一生やそこらで達成できるものではない。貴方は過去世からずっと修行してきた。貴方は教科書に登場する僧侶だった。だから貴方は、今生短い時間でサマーディーを成就できたのだ」
だから貴方が、今生覚醒したのなら、過去世からの修行の賜物なのです。そして、そこで満足せずに、更に上のステージに昇ってください。更なる高みを目指してください!私はいつもそう心がけています。

コメント