真の気づきとマインドの気づき

2022年5月24日

私がヒマラヤのアシュラムで修行していた時の話です。

ある日、私はマハヨギ・パイロットババジ猊下に「瞑想者はアウェアネス(気づき)を持つことが大事ですね?」と伺いました。

私は、当然「その通りだ」という答えが返ってくると思っていたのですが、猊下はこうお答えになりました。

「気づきと言ってもマインドでマインドを気づくだけだろう?気づきを持つのは何も悪くない。それは世間で仕事をする為には良いだろう。しかし、我々ヨギの道は生を生きることだけではない。“生死を超える道”なのだ」

猊下のこの一言は、本物の覚者のお言葉として私の潜在意識まで深く刺さりました。

「生死を超える道」という思想自体は、仏教研究者であった私にとって常識でしたが、猊下のお言葉の背景にある真の気づき、覚醒の意識が私の無明の黒闇を晴らしました。気づきについての知識が、知識でしかなかったことを深く気づかせていただきました。

リビングマスターの臨在だけが、弟子を真の覚醒に向かわすのだと深く頷かされました。

あらゆる覚者はこの生と死の世界がマーヤ(幻想)であると覚知しています。映画「マトリックス」はこの覚者の発見をモチーフにして制作されました。

映画の中で、人類はコンピューターの支配により、電気を生み出すための電池として利用されています。電脳世界の中で幻想を見せられ、精神的牢獄の中で虚しい生を送っています。

我々人類も同じようにマーヤの世界で生きています。

我々がすべきことはマーヤの世界をマーヤだと覚醒し、サマーディーという絶対的自由、無限の至福の世界に還ることです。我々はサマーディー、真如と呼ばれる真実の世界から生まれているのだから、真実の世界に往くという言い方もできますが、還るという言い方もされるのです。

あらゆる覚者は、我々がこの世界に生まれた理由は覚醒するためだと言います。

電脳世界の中でより良い生活を目指すだけでは足りません。悪夢にうなされるよりもより良い夢を見ることが良いように見えますが、より良い夢を見てもそれが夢である以上、所詮、夢は夢でしかありません。

ある意味、良い夢を見ていれば覚醒したくなくなるので、覚醒の種子が有る人たちが人生の前半を苦悩の生としてチョイスすることも多々あります。メディテーターになる人は、その苦悩のお陰で覚醒の道に入ることが多いのは事実です。

だから親鸞は言います。

「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」(歎異抄3章)

善人でさえ往生できる。まして悪人なら尚更だと言うのです。

ジーザスはこう言います。

「幸いなるかな心の貧しき人 天国はかれらのものである」(マタイ伝5章)

親鸞やキリストの謂いを逆説的と捉える人もいますが、私は逆説ではなく真説的、順説的表現だと思います。何故なら、マーヤとしての世間に満足している人はマーヤから解脱しようとは思わないからです。だから、家庭も仕事も学業もすべて満足している人よりは、苦難の生を歩む方にメディーテーターが多く生まれるのも自然の理です。

確かに、マインドでマインドを気づく程度の気づきは仕事には役立ちます。だから多くの企業が瞑想を仕事の為に活用します。しかし、瞑想は本来サマーディー(ニルバーナ・解脱)を成就するために有ります。

瞑想が仕事に活用できることは、良い面と悪い面があります。良い面は仕事に役に立つことです。悪い面は瞑想を仕事に活用することによって覚醒への道を閉ざすことです。瞑想を仕事に役立てる事だけに終わるのなら、マーヤの世界でより良く過ごすだけのことになりかねません。

何度も言います。瞑想は生と言うマーヤの世界、死というマーヤの世界を超える道であらねばなりません。

多くの修行者が人生の全般において苦悩の生をチョイスするのは、世間を放棄して出家する道を選びやすいからです。しかし、あまりにも生が過酷であると、人は修行者の道を選べません。

人は食えない生活を続けると、覚醒するより食事することを選びます。悟りよりチャパティーやスパゲッティを選びます。

インドのサドゥー(遊行者)は、すべてを捨ててサンニャシンとなり、乞食行(こつじきぎょう)をしていますが、多くのサドゥーが乞食行ではなく、単なる乞食になっていることも事実です。彼らはサマーディーよりも、毎日のチャパティーを得ることに必死なのです。

苦悩の生を選ぶことによって覚醒する道を選ぶことも事実ですが、苦悩に負けてチャパティーやスパゲティーを選ぶこともあります。

苦悩をばねにして覚醒を選ぶ道を選んだのなら、覚醒するまで過酷に見える生を楽しんでいかないと、サンニャシンとしての乞食行者になるのではなく、ただの乞食になります。

覚醒する為にエナジーを使うのではなく、食べ物や、遊び、趣味の為だけにお金をかけ生を無駄遣いします。そして無駄に死にます。

次の生も無駄に生き、再び無駄に死にます。そして転生します。

転生とは生まれ変わりです。

今生(こんじょう)人間に生まれたからと言って、次の生も人間に生まれ変われる保証はありません。貴方が覚醒するまでは転生が永遠に輪廻します。だから人間である今、覚醒を決意すべきです。

ババジ猊下は教えてくださいました

「決意(サンカルパ)の力はこの世で最も大きい力だ」

覚醒の為に、トータルにエナジーをかけた人に存在は慈悲をかけます。いつもはお金のない方が、瞑想リトリートが有ると急にお金が入るようなことはよく聞く話です。

経済的に余裕のない方でも、覚醒の為にエナジーを注いでいる方には、ババジ猊下とヒマラヤのアヴァター様方は慈悲をかけます。

リトリートに参加した途端、お金が入ったり、仕事がうまくいった人の話はたくさん聞きます。でも折角、生活面でうまくいっても、その恩寵を自利行としての覚醒の為、利他行として例えば、「ワールドピース・キャンペーン」「ガイア(母なる地球)保護」に使わなければ、今生か後生(次の生)かは別として、いずれ過酷な生に陥るでしょう。

存在は過酷な生に陥ることで貴方が覚醒する道を選んで欲しいからです。それが存在の慈悲でもあるのです。

であるならば、過酷な生の中でも、生活面で安定した中でも、覚醒に向かう道を選べば良いという事です。

貴方が覚醒しない理由は、貴方のサンカルパ(意思・決断)が不十分なだけかもしれない。であるならば、強くサンカルパを持てばいいのです。

貴方のカルマによってそうであるなら、カルマを解消するしかありません。

カルマを解消するには色々な方法があります。普通は因果応報ですので、自分がしたカルマを解消するには、いずれの生で報いを得ることによって解消されます。過去世で誰かを苦しめたのなら今生その人に苦しめられるかもしれません。

でもそのような因果応報を断ち切る方法もあるのです。私が知る限り、最強、最速、最短の道がサンカルパヨガ瞑想です。

その証拠にサンカルパヨガ瞑想に関わった人々には、色々な奇跡、神秘体験、瞑想体験、その他諸々の吉祥が現れてきました。恩寵がありました。

恩寵の中に在り恩寵を逃さない道を選ぶことはとても大事です。しかし、エゴは狡猾なので、あの手この手で貴方を再び闇に引きずり込もうとします。多くの経典には、大きな力に恩寵を受けながらも、低級霊、悪霊に惑わされ畜生道、餓鬼道、地獄道に陥る哀れな者どもの末路が示されています。

一度光の恩寵を浴びたものほど、再び、汚れた闇の世界に堕ちることは苦しいものです。光を知っただけに闇の世界の苦しみが倍増します。

皆さんはどうか最後の最後まで高い世界を目指し、かつて歩んできた低い世界に陥らないようにしてください。

それがどうしてそうなり、どのように解放されるか教えてくださるのが、ババジ猊下のようなリビングマスター(生きたマスター)です。

私はババジ猊下と一緒に居させていただく中で、瞑想を仕事に活用しながらも、同時に覚醒する種子を育てる方法を体得するには、猊下のようなリビングマスターの導きが必須だと深く思わされました。

言葉ではなく臨在で、魂の奥底まで覚醒の種子を育てて下さるマスターの臨在の有難さを噛みしめたものです。

私はババジ猊下とヒマラヤのアヴァター様方のエナジーフィールドの中で、猊下が如何に超人的に仕事をこなされていたのか知っています。

その覚醒のエナジーと大慈悲への有難さ、感謝の念は私の潜在意識に深く入り込んでいます。私の周りでは奇跡が起こり続けていますが、それは私の力ではなくババジ猊下とヒマラヤのアヴァター様方のお力だと有難く受け止めています。

「この功徳は自分の法力によるものだ。私のレベルにならないと分からないだろう」などと慢心に陥らないようにするには、ババジ猊下とヒマラヤのアヴァター様方の恩寵に感謝していく道が一番です。

多くの宗教が、地上の権力者ではなく天上の大きな力に対して、報恩感謝の道、仏恩感謝の道を歩むことを教えていますが、それが自然の理なのです。

我々は自然と言う大きな力で生かされているのですから。

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