2019年立山リトリート体験談 No.6

2019/8/2


2019年7月開催 サンカルパヨガ瞑想リトリート at 立山の体験談をご紹介します。

スワミジ師の返信はこちら

 

加地典子様(No.1

4日間のリトリート、今回は初めからすごく楽しみでした。前回のリトリートでスワミジ師、参加者の皆様が素敵すぎて会うのが楽しみだったからだと思います。何と向き合うかはノープランで参加しました。

スワミジ師が講話のなかで「愛は永遠だ」とお話されました。良く聞く言葉です。普段の私なら鼻で笑うような言葉です。でもそれから涙が止まらなくなってしまいました。自分もそれを前回のリトリート前に実感していたからだと思います。

去年の秋に私にとって大切な方が亡くなりました。私に沢山の光を教えてくれた人でした。そんな人に何一つ与えることができなかったし、沢山傷付けた自分をずっとどこかで許せずにいました。楽しい気持ち、嬉しい気持ち、ヤキモチ、色んな感情が流れていくなか、最後に残っていたのは悲しみと苦しみでした。

サンカルパヨガで、どうしてこんなに苦しいのか、悲しいのか理由を探す思考が止まると、純粋な悲しみだけになりました。ただただ悲しくて涙が止まりませんでした。

最終日、癌で亡くなった彼は苦しかっただろうなと思っていました。私は苦しいことが大嫌いで、限界までサンカルパヨガをやる前に浅めに戻していました。でも彼が味わった苦しみなら私も味わおうと無心にやりました。サンカルパヨガ瞑想をするなか、苦しみも悲しみも彼が与えてくれた愛なのだと感じました。思考ではなく、ただ感じました。それから涙が止まらず純粋な悲しみ、悲しみをとばすためのサンカルパヨガによる苦しみの交互でした。でも心が愛で満ちていく感じがしました。

今までの自分は悲しみと苦しみは悪いものだから、ずっと持っていよう。それこそが私に残された真心なのだと執着していたんだなぁ。悲しみも苦しみも彼が与えてくれたものは全て愛だったのになぁ。とお腹にストンと落ちてきました。15年も寝かせて臭いそうな愛ですが、次のリトリートまで満喫しようと思います。

今は彼から受け取ったものだから、悲しみも苦しみも怒りも嫉妬も愛だと感じることができます。でも、これを全ての人から愛の気持ちで受け取れる人になることが次の課題だと感じています。わたしのタントラ光体験一歩手前はそんな意味だと受けとりました。

スワミジ師、ヒントをいただきありがとうございました。また導いていただきありがとうございました。
ババジ猊下、スワミジ師、リトリートでご一緒できた皆様ありがとうございました。

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2019/8/5(No.2

スワミジ師から、なぜあの時涙が出たのか、スワミジ師から感じたババジ猊下と大いなる存在について感じたことを書いてほしいと言われました。私はサイキックではないので、存在を感じるのとは違うので自分なりに整理しました。

私は彼と知り合う前は怒りと憎しみを多く持っていました。そんな私に彼は「美味しいものは人と分け合うともっと美味しいよ」とか「冬の風に渦巻いたゴミでも季節を感じるよね」とか沢山のことを言ってくれました。当時の私はうるさいなと思っていました。

別れたあと、いただいた言葉が分かりたくて一つ一つ丁寧に分かるまで向き合ってきました。分かると嬉しくて仕方なかった。いつの間にか彼は私の神様みたいな存在になっていました。そんな彼が亡くなったと聞いて愕然としました。いつかこんな私になれたのはあなたのお陰だと伝えたかった。
スワミジ師とお話した時に本能的に私の神棚に彼がいなくなるのを感じました。行くつもりはなかったのですが、導かれるようにリトリート前に彼に片思いして苦しかったときに仕事で行った鴨川に行きました。その時に片思いしてたときも付き合ったときも亡くなった今も彼への愛だけが唯一変わっていないことに気付いて号泣しました。
熊野では生も死も幻想だと分かりたい、でも神棚は彼のものだと思って必死に抵抗していました。

そんな抵抗して反発していたのに、参加者のみんなが優しくて、スワミジ師もなんだかお見通しのような気がしていました。リトリートから帰ってくると彼への執着がびっくりするくらい少なくて拍子抜けしてしまいました。なんだかありがたくて、今度は素直に受けとる気持ちになって参加しました。

するとスワミジ師は今回の講話で、Oshoの写真をババジ猊下のアシュラムでも飾っていたお話をしてくれました。当時のスワミジ師がまるで自分のようで、話が私の中心に入ってきます。その時にババジ猊下がそれを見て「愛は永遠だ」と話されたと聞いて、その言葉、タイミング、その時のスワミジ師の気持ち、全てに感動と救いのようなものを感じて、ただただ涙が止まらなくなりました。彼と最後に話したときに言われた「お前のことは別の場所に大切にしまっておく」の瞬間が遂に私にも来たことを感じました。

スワミジ師は空っぽにしてババジ猊下から受け取ったものを話されているそうです。ババジ猊下も大いなる存在から受け取ったものをスワミジ師に伝えてくださっているそうです。大いなる存在からこの課題について卒業証書をいただいたようでホントにありがたくて仕方ありません。このいただいた卒業証書に恥じない自分になりたいと今は感じるんです。

実は旦那さんに、アルターに祀られたパイロットババ猊下のお写真に祈ったあとに瞑想するルーティーンが宗教じみていて嫌だと言われました。なので全ての写真を飾るのではなく、リトリート会場のアルターのお写真だけ飾ることにいたしました。彼には私が個人崇拝をしているように見えるようです。

ですが、追記を書いてみて、私の中の神棚は片付いてしまいました。次のリトリートまでのんびり片付ける予定でしたが、あの感想であっという間に片付いてしまったんです。このためにスワミジ師はおっしゃったと思いました。

次の日の朝、私の中の神棚にはスワミジ師やババジ猊下がいらっしゃるのかと思いました。でもそれは少し嫌でした。個人崇拝は執着を生むことを嫌というほど思い知っていたからです。でも神棚のあった場所を眺めると穴があいていただけだったんです。なのでババジ猊下のお写真に祈るのは個人崇拝とはまた違うんです。

でもじゃあなぜ祈るのかと言われると、なんとなく?私にとって分かりやすい方法で導いていただけるから?でもスワミジ師がおっしゃったように光はここだと教えていただくだけで、ちゃんと自分の足で向かっているんですよね。

スワミジ師の返信

No.1

典子さんは自覚していなかったかもしれないけれど、私がパイロットババ猊下の「愛は永遠だ」という言葉が雷光のように突き刺さった経験を話した時、典子さんにもその雷光が突き刺さったのでした。

私はかつて、「愛は永遠だ」などという言葉を陳腐に感じて、せせら笑うタイプでした。典子さんも同じことを仰っていましたね?
覚者は言葉に魂を込めるのです。言葉に神秘的な響きを乗せるのです。その言葉の内側にはアストラル体があるのです。
だから私にお言葉が雷光のように突き刺さり、典子さんもそれを感じたのでした。だから典子さんは図らずも号泣したのだと思います。図らずもというところに真実を感じます。

私はリトリート中、マハヨギ・パイロットババジ猊下の臨在、スペースを皆さんと共有していました。それを自覚した方もたくさんいました。祥子さんもパイロットババ猊下の臨在を感じていました。ウラゆきさんも光の体験をしました。

有名なユタの玉城さんような“観える方”達はそれを霊視できます。玉城さんが霊視するには、私の周りには、無数のアバター様(化身・権現)達の光がものすごいスピードで周回しているそうです。
その光を受け入れるスペースのある方には、色んなことが起こります。起こらないように見えても、内側では確実に変容します。それはこれまでの私の体験で実証済みなのです。

今まで私の前で神秘体験した方はたくさんいます。そういう方たちはアクセプタンスがある方です。私はそういう方たちと出会い、共に霊的進化のスピードを速めていきたいのです。そしてできれば、この地球を人類の暴挙から救いたいのです。母なる地球を守りワールドピースを実現したいのです。もう奪い合い、争い、殺しあう世界を見たくはありません。人類の悪しきカルマから自由になりたいのです。

完全なる自由を解脱と言います。
私は私自身のカルマのみならず、世界全体の悪しきカルマから自由になりたいのです。皆さんもそう願っているはずです。
だからごらんなさい!前回も今回もリトリートに集まった方たちは、皆さん幸せだったでしょう?殆どの人たちがリトリートに集まった人々そのものに、安らぎを感じたと言っています。ソウルファミリーだと感じています。
私はそういう人たちと出会いたいために、リトリートを始めました。そして想像以上に、成功しています。
皆さんに出会えて良かったです。

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No.2

先ず我々は個人崇拝はいたしません。個人崇拝はカルト化に繋がりやすいからです。でも私がパイロットババ猊下のお写真を飾っているのは猊下を愛しているからであり、信頼しているからです。

愛する人の写真を飾り、カルト化する人々も居るに居るでしょう。でもそうでない人のほうが多いでしょう。自分が生んだ赤ちゃんの写真を、大切な思い出として飾る母親のハートはカルトとは無関係でしょう。
私はそのカルト化が生理的に駄目です。

祈りは祈りそのものが崇高です。誰に祈るかではなく、対象が誰であるかはではなく、祈る自分が美しいのです。

私はババジ猊下を信頼しています。だから写真がなくてもOKです。でも写真があったからと言って、問題にはなりません。
猊下が土中サマーディーから戻られたとき、私が猊下にナマステしている写真が大好きです。純粋に祈っている、そのピュアさが好きです。
それを個人崇拝と感じる人もいるかも知れないし、ナルシストと勘違いする人も居るかもしれません。

それは私の問題ではありません。その人達のマインドの投影です。私は私自身を知っています。だから個人崇拝などとは無縁です。
他人がどう思おうと関係ないのです。

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