2019年立山リトリート資料No.2

2019年7月5日

◎人は他人のことを話す時、相手のことではなく実は自分のエゴについて語っている

人は他者のことを語るとき、相手のことではなく、実は自分のエゴについて語るものです。例えば、我が師マハヨギ・パイロットババジ猊下やヨグマタジ(相川圭子師)の「公開サマーディー」を売名の為のショーだと非難する人たちがいます。その方たちは深い瞑想体験が無い自分の事を語っているだけなのです。ババジ猊下やヨグマタジのスペースを理解できるほどの深い瞑想体験が有る方は、決してそのようなことは言いません。

真の瞑想者は、名利や功名心などに関心を持ちません。覚者はそんなものがハートにとって毒でしか無いことを知っています。サマーディーの世界を知った存在は、できるならこの狂気の世界に戻りたくないと思うものです。

覚者がこの世界に戻る理由は唯一つです。未だ迷妄の世界で苦しむ衆生を救済したいからです。それを覚者の大慈悲心と呼びます。

こんな実例があります。ババジ猊下が「世界平和の実現」の為に、周囲の反対を押し切ってダライ・ラマ法王をクンブメーラに招待しました。猊下は「世界平和のために、ヒンドゥー教とか、仏教、イスラム教とかキリスト教の違いを超えて共に助け合いましょう!」と呼びかけられました。猊下の呼びかけに応じて、ダライ・ラマ法王や、キリスト教、イスラム教の指導者達がクンブメーラに集まりました。

クンブメーラはヒンドゥー教最大の聖者の祭典です。2019年に開催されたクンブメーラにはのべで1億3千万人の聖者と信者が世界中から集まりました。そのクンブメーラの最高指導者がババジ猊下です。

ヒンドゥー教の祭典に仏教徒を呼ぶのは、呼ぶ側にとって実はとてもリスキーな事なのです。インドの事情を知らない方は意外でしょうが、インドでは仏教徒は下層階級として蔑視されています。アウトカースト、即ち、カースト外の人非人として差別されています。仏教僧であった私には許せない現実です。

実際、低級な意識がもたらす鼻もちならない優越意識と、くだらない差別意識には辟易します。優越意識の裏側には、大抵劣等意識が見え隠れします。

反対に、霊的に優れたインド人は彼らとは真逆で、すべての宗教やすべての人々を敬います。猊下がその典型です。猊下は総ての宗教をリスペクトされています。総ての人種をリスペクトされます。覚者にはカースト差別などありません。群衆だけがカースト差別に囚われています。

カースト意識に縛られた一部のインド人は、ダライ・ラマ法王でさえ、アウトカーストの頂点として見くだします。インド人の多くが、ネパール人やチベット人を差別しているのは悲しい現実です。

それにも関わらず、ババジ猊下はダライ・ラマ法王をクンブメーラに招待されたのです。私はかつて仏教僧でしたので、当然、ダライ・ラマ法王を尊敬しています。だから、「マハヨギ・パイロットババジ猊下がダライ・ラマ法王をクンブメーラに招聘した」というニュースを聞いて感動しました。

ところが、世間にはつまらない人も多く、「パイロットババジがダライラマ法王を招聘したのは売名の為だ」などと非難した人もいました。そんな馬鹿げたデマを飛ばすのは、ダライ・ラマ法王やババジ猊下のような覚者とは、縁もゆかりもない一部の愚かな人々だけです。そういうジャッジは、その人たちのエゴの投影です。自分がそうだからと言って、猊下がその人たちと同じレベルだとはなりません。その人達は、猊下のことを語っているようで、実は、自分の無知と狭隘なマインドを語っているだけなのです。人は相手のことを語るとき、実は自分を語っているのです。

深い瞑想体験をしている者にとっては、世間的名声などただのゴミでしかないのです。誰かが一度でも深い瞑想を体験すれば、内側の至福の世界を知れば、世間的地位、名誉、権力、名声など、精神にとって有害な毒物でしかないことに気づきます。

ちょうど、長い間断食をすると自然に身体に悪いものを受けつけなくなるように、深い瞑想を知った人は、名誉、名声、権力意識など、有害なゴミとして受け付けられなくなるのです。一度でも内側の清浄(しょうじょう)なスペースを知れば、毒にまみれた世間には戻りたくなくなります。

私がヒマラヤで深い瞑想に在ったときは、アシュラム内での小さな世間と関わることさえ嫌でした。だから、私は絶対に他者と会わないようにして沈黙行を続けました。部屋の窓を締め切り、部屋を真っ暗にして、最低でも一日23時間以上座禅し続けました。自分の内面の世界に沈潜し、内なる美しい世界を楽しんでいました。

◎難行には難行の意味がある

私は気温が零下のヒマラヤで、48時間から72時間もの間無心でいたこともしばしばありました。48時間と言ってもその間は無心ですので、寒さも感じないし、足の痺れも感じません。だから難行苦行とは感じませんでした。通常の瞑想と何一つ変わりませんでした。

私は仏教者時代、難行苦行を否定する考えだったのですが、実践することで難行苦行にも意味があることを知りました。それに私の場合、それを難行と感じること自体が無かったのです。

マラソン選手が或るゾーンを越えると、ランナーズハイという状態になります。それを体験しているマラソン選手の多くはマラソンを難行苦行とは思っていないでしょう。

私の場合、内面の世界は例えば光と至福の世界でした。あるいは、内なるソウルメイトとの出会いであったりしました。内なるソウルメイトは、自分の魂が求める最高の女性です。その清浄な魂、気高き美しさ、慈愛、何をとっても、比較にならないほど素晴らしく、至福の中に在りました。

従って、48時間不眠断食座禅を難行苦行と感じたことはありませんでした。何も知らずに難行苦行を否定していた自分に恥ずかしさを感じたものです。

難行を難行と思っている間は、それは難行であり苦行かもしれません。ランナーズハイになるまでの間は苦しくても、ある段階を経るといわゆるゾーンに入ります。ランナーズハイのように、苦しみはある時点から至福に変化します。それを知っているマラソンランナーはマラソンを苦行とは感じないことでしょう。苦しいだけなら誰も続けてやらないと思います。少なくとも私は、内側の世界の美しさを楽しんでいました。

ババジ猊下は私にこう教えてくださいました。「ブッダは難行苦行に疲れ果て、何もかも放棄した。サマーディー成就の意思さえも放棄した。村娘スジャータから乳粥を供養され、極度の緊張から解放された。そして完全にリラックスした。そしてその夜、ブッダガヤで覚醒した。その前に難行苦行があったればこそ、釈尊は完全にリラックスしてサマーディーを成就した」

私は深く頷きました。

例えばハタヨガのシャバーサナ(シャバアーサナ)でも、リラックスするためには最初全身をできるだけ収縮して緊張させます。それから、ストン!と力を抜くことで完全にリラックスします。極度の緊張の後にリラックスするのです。難行とはいわば極度の緊張状態を作ることを目的の一つとしています。

私が、かつて属した仏教宗派は難行苦行を否定していました。親鸞は、信心だけで光明を得るステージに到達できると主張しています。それは事実です。私はその道を否定しません。信心だけでも光のステージまでなら達成できます。光のステージはすばらしいものです。私は永遠に光の世界にいてもいいと思っています。

光の世界とは、例えば阿弥陀仏の極楽浄土です。キリストは「神の国とはなんぞや?」と信者に聞かれたとき、「神の国とは光の国である」と答えています。つまり、光の世界とは極楽浄土や天国なのです。そのどこに不満があるでしょう。私はありません。

光のステージには、「サマーディー以前のステージ」と「サマーディーのファーストステップにおける光のステージ」があることを私は知っています。でも、どのステージであれ素晴らしいものです。体験したことがない人だけが上とか下とか、上下差別の幻想に囚われます。マインドにとっては、第四サマーディーより、通常のマインドに近い光のステージの方が理解しやすいのです。

光のステージを超えようとすれば、信心だけでは難しいとされます。それ以上となると、別の道が必要です。私は最初、信心、サレンダーの道を歩み、神秘体験いたしましたが、「12,000年秘密のクリヤヨガ」を実践したときサマーディーを成就しました。

不眠断食座禅を240日間続けたところで、ババジ猊下は「これ以上瞑想を続けると、3ヶ月しか生きられないからやめなさい」と仰って、私の瞑想を止められました。

毎日が無心であるか、神秘体験の連続であるような至福の時間を過ごせば、誰だって世間と断絶したくなるものです。名誉欲などマインドの毒の代表であり、瞑想にとって有益なことは一つもありません。そんなものを持っていれば、内側の美しく、崇高で至上の至福を取り逃がしてしまいます。

そういうステージを体験したことがない人だけが、ババジ猊下のような偉大なサンカルパ・サマーディーヨギをジャッジします。彼らはババジ猊下を語っているのではなく、己の陳腐さを語っているのです。

◎ササラン王国の王子として、地位、名誉、財産、名声総てを持って生まれたマハヨギ・パイロットババジ猊下

ババジ猊下はササラン王国の王子として出生され、地位も、名誉も、財産も総て最初から持ってお生まれになりました。ササラン王国で王族である猊下を知らない人は一人もいません。ササラン王国の領土はかつて日本の国土くらいあったと聞きます。ご家族はネルー首相を初め、インドの有力な政治家と親密な関係をお持ちでした。

猊下ご自身も空軍中佐時代、ラジブ・ガンジー中佐とは親しい友人でした。ラジブ・ガンジーとババジ猊下は空軍中佐仲間だったのです。周知のように、ラジブ・ガンジーは母親のインディラ・ガンジー首相の後を継いでインド首相になりました。

猊下は空軍中佐時代から有名な空軍のヒーローでした。猊下は空軍時代、あることでギネスブックに載り、インド中で有名になりました。その当時、インドで猊下の名前を知らぬものはなかったそうです。猊下はどこに行っても有名でした。売名行為をする必要などさらさらないのです。

そんな猊下が、突然発心(ほっしん)して莫大な財産、地位、名誉を総て捨てて、腰布一枚のサドゥー(遊行者)になったのです。

サドゥーとは、サマーディー成就を求めて、一切の世間的柵(しがらみ)を断ち、私有財産をすてて、腰布一枚と托鉢用のボールだけを持って遊行する修行者です。ナガサドゥーはそうしたサドゥー(遊行者)の中でも、最も厳しいサドゥーの一派で、腰布さえも所有せずに全裸で修行します。

猊下のご家族は、現在もビハール州で三本指に入る大富豪です。売名行為をしたい人が求める総てを、猊下は生まれつきお持ちでした。「公開サマーディー」を売名行為だと仰る人は、何も知らずに猊下をジャッジしていることを知って頂きたいのです。

◎マイナス50度の極寒の地で腰布一枚巻かず、断食しながら一日50km走破する千日回峰行

猊下は発心してすぐさま、極寒のヒマラヤに向かい、常人には信じられないような修行をされました。なんとマイナス50度の世界を全裸で断食しながら一日50km歩く千日回峰行をされました。

日本に伝わった千日回峰行は、ヒマラヤの伝統がそのまま伝わったものです。千日回峰行で有名な金峯山寺の御本尊の金剛蔵王大権現を見たとき、私は「シヴァ神だ!」と思いました。憤怒神で青い身体はシヴァ神そのものです。真言密教や修験道には、チベット密教タントラが色濃く伝わっています。チベット仏教はインドのタントラ密教の影響が強いのです。

日本の千日回峰行も大変です。あまりに過酷な修行のため、金峯山寺では歴史上二人しか成就していません。

しかしヒマラヤの千日回峰行は更に過酷です。ヒマラヤは高度が高く極寒の地です。冬には、マイナス40度や50度になる世界です。そんな過酷な世界で、裸で半年間断食するだけでも人間業とは思えません。

猊下は高度4000メートルのヒマラヤから8000メートルまで一気に駆け上られたというのですから驚きです。4000メートルのヒマラヤから7000メートルのヒマラヤへ半日で往復されたこともしばしばあったそうです。とても人間業とは思えません。猊下にお話を聞くと、「獣道を通るのだ」とのお答えでしたが獣でも不可能な行です。

猊下はヒマラヤの総ての山に登頂したと仰いました。ということは、8000メートル級のヒマラヤに何度も登頂しているということになります。8000メートル級のヒマラヤには獣道がなさそうに見えます。

この話をある人にしたら、彼はこう答えました。「それは走っているのではなく、きっと飛んでいるのだね!」私も思わず笑ってしまいましたが、実際そう思いました。空中飛行するヨギの存在を聞いていたからです。猊下が千日回峰行をされた現場に行ったことがありますが、私は1mも登れませんでした。そのくらい勾配がきついのです。間違いなく、猊下は飛んでいると思いました。

◎修行者時代の猊下に日本の登山隊が接触する

世界中の登山家が猊下の修行を目撃したそうです。猊下が修行者時代、世界の登山家の間ではこんな噂が飛び交ったそうです。「ヒマラヤには世界の登山家が重装備で挑戦しても登頂できない山を、裸で半日で行き来する仙人がいる」

この噂は、日本の週刊誌や漫画で何度も取り上げられたことがあります。日本人の登山家だったある歯科医師が、この噂を聞いて猊下に接触しました。歯科医師さんのお名前は失念しましたが、山田さんとか佐藤さんのようによくあるお名前でした。

日本の登山隊は世界の登山隊がまだ登頂していないヒマラヤの山の初征服を望んでいました。山の名前は失念しました。彼は世界の名だたる登山家でさえも登頂できていないヒマラヤに、何の装備も持たずに半日で行き来する仙人にガイドをお願いしようと思ったのだそうです。

その歯科医の登山家の願いを聞いた猊下は、快くそのガイド役を引き受けられました。勿論、無報酬です。ただし一つだけ条件をつけました。「酸素ボンベや、装備品などをヒマラヤに捨てて環境を破壊しないことが条件だ」

世界一流の登山家達でさえ、酸素ボンベなくしてそのヒマラヤに登頂することは死を意味していました。実際たくさんの登山家がその山で遭難して亡くなっています。

猊下は登山家達が、酸素ボンベなどの装備品をヒマラヤに捨てていくことを憂慮されていました。昔は現在と違い、登山家たちはヒマラヤにゴミを捨て放題でした。現在はババジ猊下の働きかけで、ゴミを捨てることは禁止されました。

登山についてはよく知らないのですが、決まった場所にゴミを捨てて、ヘリコプターで回収すると聞いたことがあります。その方法はお金がかかるので、昔の登山家はゴミをそこら中に捨て放題でした。神聖なヒマラヤの環境が破壊されていました。

当時は酸素ボンベなどを回収するシステムはありませんでした。従って日本の登山隊は猊下の示す条件をクリアできませんでした。

歯科医の登山家は、猊下の「神々の国であるヒマラヤを護る」というお考えに感銘を受けました。猊下のお示しで、環境保護の大切さを学びました。彼は日本に帰国してから「ヒマラヤで人間とは思えない超人にお会いした」とあちこちで話をしたそうです。

この後、猊下は、富士五湖の一つである「西湖」で三日間の水中サマーディーを成就されています。主催はヨグマタジだったのですが、その歯科医の方も何らかの形で関わっていたのかもしれません。

◎釈尊とマハヨギ・パイロットババジ猊下の共通性

釈尊(お釈迦様)はネパールのルンビニーで生まれました。釈迦という名前は釈迦族のことです。例えばアイヌ民族とか琉球民族みたいな呼称です。ですので、民族名で呼ぶのは失礼だと言うので、釈迦族の尊者という名称に変えました。釈迦族の尊者を略して釈尊と言います。

しかし、インド人やネパール人にシャッキャ(釈迦)とは何ですか?と聞くと、それはカースト名だと言います。釈迦族ではなく、釈迦カーストだというのです。インド・ネパール世界ではなんでもカーストとして捉えます。釈迦族とは捉えず、釈迦カーストとして捉えます。琉球民族やアイヌ民族を、琉球カーストとかアイヌカーストのように捉えるのです。

日本語の和尚の語源であるウッパダーヤもカーストだというのです。和尚というカーストがあるというのです。この辺りは、外国人には中々理解されにくい事情です。

釈尊は僧侶カーストではなく、釈迦族の王国に王子として生まれました。インド・ネパール世界は、地上の権力者といえども、覚者、僧侶の教えに従います。

カースト的にはブラーミン(バラモン)の下の騎士階級であるチェトリアです。因みに、インド人・ネパール人はチェトリアと発音します。クシャトリアとは発音しません。

ところで、釈迦という名前とカーストは、今も昔もネパールにしかありません。インドにはありません。釈迦という名前は、例えば、沖縄で言えば、我那覇さんとか比嘉さんという名前と似ています。共に沖縄にしか無い名前なので、名前だけで出身地が解ります。

釈尊がお生まれになったルンビニーはインドの国境に隣接しています。釈迦という名前とカーストはインドにはなく、ネパールにしかないので、ネパール人は釈尊がネパール人だと主張します。

仮に釈尊が沖縄でお生まれになり、比嘉さんという名前だったら、当然釈尊は沖縄人だと思うでしょう。私はネパール人を差別していないので、釈尊がインド人ではなくネパール人だとしても何の違和感もありません。覚者=仏陀は人種を超えています。

釈尊は、地位も財産もすべて持った王子として生まれ、成人になるまで王族として生活しました。王族は地上の権力者ですが、祭祀ではありません。地上の権力者が祭祀という宗教権力を持てば、権力が集中しすぎてろくな事はありません。イギリスの思想家アクトン卿が言うように、絶対権力は絶対的に腐敗します。

国王でさえ、覚者の教えには従うようなシステムはある意味良いものです。カースト制度が覚者に従うだけの制度であればよかったのですが、地上の権力者はそれを許さなかった。チェトリアの下に、バイシャ(商人)、さらにシュードラ(奴隷)カーストを制定しました。

因みにカーストという言葉はポルトガル語で、インドではヴァルナとジャーティと呼ばれます。学校で習ったカースト制度は所謂四姓制です。四つのカーストしかありませんが、実際は全く違います。最初は四つしかなかったカーストが細分化して、現在では2000くらいあると言われています。

カースト制度は世界で最も醜い社会的差別システムになってしまいました。だから、すべては平等であると主張する釈尊の考えに私は同意します。

釈尊は、王子として何不自由のない生活をしていました。しかし、ある日突然発心してサドゥーになりました。そしてネパールを離れ、インドのマガダ国に向かいそこで修行しました。ババジ猊下がお生まれになったササラン王国とマガダ国は、国土的に重なるエリアです。

釈尊はマガダ国で、難行苦行を重ねました。そして6年でサマーディーを成就しました。釈尊の八正道の最後のステージがサマ・サマーディー(正定)という名前から解るように、釈尊はヒンドゥー教・ヨガの修行者でした。

ヒンドゥーという名前の変化系がインドです。インドとは、もともとはシンドゥー川のことです。シンドゥーがヒンドゥーになり、インドゥー、そしてインドになりました。ヒンドゥー教という言い方を日本に当てはめれば、いわば、日本教です。従って、インド人はインドで生まれた宗教は総てヒンドゥー教の一派としか考えていません。仏教も、ジャイナ教もシック教(シーク教)も総てヒンドゥー教の一派だと理解しています。

ババジ猊下も、釈尊と同じく地位も名誉もお金も総て持ったマハラジャ(王族)としてお生まれになりました。釈尊と同じように、ある日突然発心してヒマラヤに向かい、短期間で解脱しました。猊下は僅か2週間で最初のサマーディーを成就しました。ババジ猊下が「現代の仏陀」と称賛されるのは、猊下と仏陀にこのような共通点があるからなのです。

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