2019年10月開催 サンカルパヨガ瞑想リトリート at 静岡の体験談をご紹介します。
北陸在住 M様
スワミジ師の下での学びも3回目となりました。
熊野では純粋性を感じた。
立山は祝福だった。
そして静岡は...
私には静岡の課題は、三次元的にとてもハードです。
★「壊れやすいハートを隠すことはない」
私は態度はでかくエラそうですが、実は細かいやつです。女の形をしてるけど中身が男なので、繊細であることは私にとって、ずっと女々しく恥ずかしいことでした。
禅の修行を続けるなかで、私は私でいいのだとだいぶ納得していたのですが、やはりまだ残っていたのですね。
初対面の人と集団が苦手で、今回のリトリート中も、だいぶ心が剥き出しにされたような緊張感を持ち続けていました。
2日目の瞑想で出てきたのはこんな言葉です。
7年前の冬、頭が狂ったと思うくらいに、理由もなく泣き続けたひと月がありました。今晩も泣く。また号泣するとわかってウンザリしながらも坐禅せざるを得ない、どうにもできないルーティンに嵌まったつらいひと月でした。
なぜこんなに泣けるのか、坐禅しながら私はおかしいのではないかと狂いそうになりながら、でも取り憑かれたように坐禅する。
ハートが粉々になったようで苦しみながらも坐り続けたのは、一緒に坐ってくれる存在があったから。
私はそれをブッダの遣いの化身みたいに当時は感じていたのですが。
「壊れやすいハートを隠すことはない」
その言葉を聞いたとき、一瞬に理解しました。
誰かはわからない。でも7年前一緒に坐り続けてくれたのは、あなただと。
あの時傍らにいて見守ってくださったのは、いまこのお堂にいらしているアバターさまのどなたかだったんですね。
あのときから既に…!と思った途端に、身体のなかにずどんと降りて来たのは、あのときもあのときもあのときも!という、スワミジ師に導かれたいくつもの生の記憶でした。
何百年か何千年かはわからない。でもずっと諦めずに、この私ごときを導き続けてくださっているのだ!そして今生でもこうやって、忘れずにおそばに呼んでもらえている!その有り難さと懐かしさと、強烈な不思議さにやはり涙がとまりませんでした。
★「人を幸せにするためになにか背負う必要はない。
それは責任や義務ではない。自分が自由でありなさい」
3日目は、荒れた土の上で乾いた食料を食べる、みすぼらしく不幸そうな疲れた集団を俯瞰しているビジョンを見ました。
その500人ほどの民の、私は王か部族長のようです。まともなものも食べさせてもやれない、幸せにもしてやれない自分の無力さと責任に押し潰されそうです。
そのときに聞いた言葉です。
まだ瞑想に入ってそんなに時間が経過していない筈なのに、前から肩を押され寝転ぶように促されました。シャバアーサナーのポーズをとった瞬間に、身体が浮かび上がるような「自由」を感じました。
具体的に私が現実世界で背負っていた店と従業員への執着と不要な責任が落ちたと感じた瞬間でした。
印象的な経験はこのふたつです。
神秘体験と言ってもらえるようなこともいくつもありましたが、もうそれは当たり前と感じてしまった自分がいます。そこを流せるようになりました。
素晴らしい師のもとでまた修行できるという希有な機会と、ソウルファミリーである道友との時間。浄化の台風と静岡の海、リートリート会場の濃密なエナジー。充電され切ったような感覚で下山すると、ところがそこには混乱が待っていました。
★「壊れるものは壊してしまえ。
本当のハートブレイクのあとに新しいハートは生まれる」
リトリートが終わったその日に台風で新幹線が動かず帰れなくなるは、お金を失ったと勘違いするはで混乱しつつ、やっとバスのキャンセルが出て穏やかに家に帰ったと思ったら、家族が別人のような顔をして待っていて、新たな問題が持ち上がってました。
私自身の店の閉店への決心やらスタッフが辞めたやらに加えて、夫婦関係やら生活のことやらお金のことやら彼の精神状態やら…!一気に問題が押し寄せて、家に帰って1時間もしないうちに過呼吸の発作を起こして号泣する羽目になりました。
もう胸(心臓もいわゆるハートも)が苦しくて壊れそうで倒れながら、ババジ!スワミジ師!私はどうしたらいいんですか!と叫びました。
「壊れるものは壊してしまえ。本当のハートブレイクのあとに新しいハートは生まれる」
壊れやすいハートを隠すなと仰ったあとで、そんなもの壊してしまえと言うのですか!
存在の試練はなかなかハードできつく、情け容赦ない。だけど、リトリート直後だからこそ。ちゃんと理由があって今それなのだと信じることができる。流れにいることをこの期に及んで疑うことはできない。
とにかく飲み込まれないように。ハートが壊れても最後まで閉じないように。それだけ意識して過ごすことにしました。実際これを書いている今もそうです。
★静岡リトリートに感じることは「JOY」です。
リトリート後に起きている事、その後の皆さんの書き込みを見ても揺さぶられているのは私だけじゃないようです。
あのときお寺を揺さぶりながらも通り過ぎた台風が、種をそれぞれに仕込んでいったかのように、それぞれの世界が揺れて私たちを揺さぶっているかのようです。
持ちこたえるのに精一杯で余裕なんてとてもじゃないけどないのに、でも。それでも。私はいま「笑いなさい!楽しみなさい!」って言われてるような気がしてならないです。
しんどいことは準備が出来ているから、起こる。
起こることを受けとめられる力がもうついているんだ。
そうだろう?
そこまで知っているならそれを楽しみなさい!喜びなさい!
そう言われてるように思うのです。
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