2019年静岡リトリート体験談 No.1

2019/10/20

2019年10月開催 サンカルパヨガ瞑想リトリート at 静岡の体験談をご紹介します。

スワミジ師の返信はこちら


ウラゆきこ様

昔から人を観察していました。

これまでいろんなことをたくさん

経験して失敗して分析してきました。

西洋のものと東洋のもの

社会との折り合いと

自分の創造性を生きること

男性性と女性性などの

相反する概念のバランス

どれもそれを語るその人の

概念なんだと気付きました。

特に覚者らに対して

見える感じるものは自己紹介に

過ぎないのです。

「自慢に聞こえる」人は

心の中で比較してマウンティングする

わたしですよーと

「同じこと言ってるから聞く

価値がない」と思う人は

自分の思う価値に人を合わさせて

ジャッジするわたしですよーと

「かわいい」と思う人は

可愛げ大事だと思ってる

わたしですよーと

「煩わしい」と思う人は

自分のペースを守りたい

わたしですよーと。

「厚かましい」と思う人は

ノーを言ったら許されないとか

人を信じられないわたしですよー

と自己紹介しています。

見えるものは自分のジャッジ。

何に反応して

何を良しとして

何をダメだと思うのか。

覚者はあまりジャッジしません。

あと、覚者にエゴ部分は

ありますが、それと関係なく

存在の媒体として

叡智や愛や進化を促すことや

活性したり浄化したりは

勝手に流れてきます。

だからこちらが自分の思考のゴミ

エネルギーのゴミを捨てるほどに

受け取れるものは多くなる。

わたしがスワミジ師に感じるものは

スタッフがわたしに感じる

ものでもありました。

わたしがスワミジ師に取る態度を

スタッフはわたしにとっています。

わたしは愛され甘やかされ守られ

助けられて今回のリトリートを

行うことが出来ました。

言わなくても自ら助けてくれようと

動いてくれる人達に助けられていました。

近づこうとすると

開いてくれました。

瞑想中にはたくさんの不思議な

体験をしたのですが

でも1番先に言いたいのは

全てがわたしになった体験です。

わたしのハートが広がって

全てになっていた。

途中で誰かが解放をしている

時にはわたしの感情やカルマが

解放されていきました。

自分がしなくてもよかった。

誰かが笑えばわたしも笑う。

誰かが泣くと一緒に震える。

誰かが幸せならばわたしも幸せ。

本堂はもうわたしになっていました。

そこにはわたし以外の人は居なかった。

スワミジ師がわたしをトントンして

ベルを促したのかな?と

薄眼を開けると居なかったり

後ろから明らかに気配があって

わたしの頭の上や後ろから

エネルギーの圧を感じたけれど

スワミジ師は居なかったり

群青色のブーンと音のするエネルギー

を感じたり

エネルギーのエレベーターみたい

なのがお腹から第3の目まで

登って行ったり

生成り色に金の刺繍の入った服

をきた長髪の男性を見たり

第3の目の穴の中に入って

幾何学模様や黒や白や六角形の穴を

進んでいったり

いろんなことが起きたけれど

なにより変化を感じたのは

そういうものを追わなくなったこと。

それらはオマケでどうでもいい。

自分の価値を試そうとしたり

見せつけようとしたりしなくても

全てが自分なので寛いでいられた。

そしてまた、起きてくる出来事の

被害者にならなくなったこと。

起きてくることを表面の感情は

「あらあらあら」と騒ぐけれど

深いところで静かに観察できること。

そして、好き嫌いじゃなく

(わたしは好き嫌いが激しい人で

超絶好きな人には甘いし

そうじゃない人には冷淡です。)

ある人の取る態度に対して

理解ができたり

感謝が出来たりと

少し自分のポリシーを脇に置いて

俯瞰することが楽になってきた。

そして人のすることが

とても滑稽で可愛く思えるように

なってきたのですよ。

それでも運営のために皆様に

少し厳しく注意もしましたが

受け入れてもらえてたなあ。

有り難いなあ。

悪役になるとかそういうのも

全然OKって思えた。

スタッフの人たち

参加者の人達と

連帯感と一体感と愛情を感じて

本当に幸せな時間を過ごしました。

何かがはっきり変わったとは

分からないのだけれど

愛の体験をしていたと思います。

全てが本当に有り難い。

ここまでの人生のプロセスも

人とのご縁も何もかも。

お寺様、アヴァター様

スワミジ師ありがとうございます。

自分のコップを空にして

そうすると存在が入ってくる。

それは誰かに自分を明け渡すのでは

なく、スワミジ師がそこに入るわけでも

洗脳されているわけでもなく

もっと本来の自分に近づきます。

魂が望むことが分かってくる。

わたしは言葉では受け取らないけれど

自然にその行動を取っています。

エゴを捨てたらもっと大きな自分

の存在に近づくことができるのです。

エゴは自分を消されることを恐れ

たくさんの理由をつけ

最終的にスワミジ師の欠点を探し

スワミジ師のせいにして

自分を守ろうとします。

自分の正しさを主張して

プライドを守ろうとします。

スタッフをすることで

有難くも関わらせてもらい

煩わしいことが起きたりして

何度も何度もうんざりして、

自分のエゴに気がついて手放す。

自分のやりかたを手放す。

自分の正しさを手放す。

さらに楽になる。

サンカルパヨガで燃やして

超えてきました。

ツールがあるって有り難い。

スワミジ師からの返信No.1

2019/10/31

「途中で誰かが解放をしている時に
はわたしの感情やカルマが解放されていきました。

自分がしなくてもよかった
誰かが笑えばわたしも笑う。

誰かが泣くと一緒に震える。
誰かが幸せならばわたしも幸せ。
本堂はもうわたしになっていました。

そこにはわたし以外の人は居なかった」

流石はゆきさんです。

お答えしたいことがありすぎて、中々コメントできませんでした。そうなのです。内側の瞑想スペースが広がると自然にこうなるのです。内側のスペースを広げることは理屈としては簡単です。

コップの中の水を捨てればいいのです。コップの中の水とはマインドの象徴です。水を捨てれば、即座にコップの中に空気が入ります。この空気は“空”の象徴です。

こういうと、瞑想性に乏しく、ヘッドに走る悪い癖のある人は、簡単すぎて得心が行かないようです。シンプルで分かりやすい答えだと、何か不満の人もいるのです。ヘッドで生きているとそうなります。かつて私もそうでした。

しかし、真理はとてもシンプルなものです。真理を知りたいのなら、先ずはマインドを捨てて無心になることです。それが体得できると、ゆきさんが描写する瞑想的世界が発現します。

「途中で誰かが解放をしている時には
わたしの感情やカルマが解放されていきました。
自分がしなくてもよかった
誰かが笑えばわたしも笑う。
誰かが泣くと一緒に震える。
誰かが幸せならばわたしも幸せ」

そうです。このようになるのです。“誰かが幸せになれば私も幸せになれる”のわは、とても簡単なことなのです。

アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』によると、幸福は「他人の不幸を眺めることから生ずる快適な感覚」という意味があります。大学時代に初めて聞いた時は、思わず爆笑しました。私は似非宗教や、薄っぺらな倫理主義が大嫌いでしたので、人間の心理の本質をついているこの言葉は大好きでした。

しかし、残念ながらそう思う人は決して幸せにはなれません。こんなことは俗悪な倫理団体が言いそうなセリフで、多少気持ち悪さを覚える人もいると思いますが、人の幸せを喜んであげられるようになると、自分も幸せな気持ちになるという事実は曲げられません。

覚醒の道は、倫理主義や道徳主義の道とはまったく異なります。倫理道徳の価値観は時代によって変わりますが、覚者が語る真実は時代に影響されません。

仏教では、覚者の識は「常なる識に非ざる道」なので、非常識といいます。

世間一般の非常識の意味とは全く違います。常識を超えた仏の識という意味です。今風に言えば、普通の意識を超えた超意識です。それが仏教で語られる本当の「非常識」です。

「非の思想」は仏教に限らず、インドの基本的な思想です。反暴力と言えば対立を作り「暴力には暴力を」となるので反暴力とは言わずに「非暴力」と言います。

マハトマ・ガンジーが非暴力主義を称えましたが、それはインドの伝統なのです。ルーツはヒマラヤに有ります。

瞑想スペースが出来た人は、他人の瞑想性が深まるとそこにシンクロして、自分の瞑想も深まるのです。それが自然の摂理なのです。人間はそのようにできているのです。であるならば、この法則を利用しない手はありません。

だから、他人の神秘体験を疑い説教する暇が有ったらそっくりそのまま他者の良いとこをすべて貰うのが、一番楽で手っ取り早い、有難い道を歩むのが利口というものです。これを仏教では易行道他力の法門と言います。

ただしこの教えを説く人は多いけれど、実践できている方は皆無に等しいです。

『無量寿経』の中に「易往而無人(いおうにむにん)」という言葉があります。「(阿弥陀仏の仏力によって)浄土は往生しやすいにもかかわらず、(そういった人は稀なので)その浄土には人がいない」という意味です。皆さん理屈ばかりで本質を体得しないからこうなります。

私の記事を読んでいる方は既にご承知のように、20年前に私はヒマラヤで半身不随になりました。ヒマラヤのアシュラム(僧院)で、240日間、寝ないで断食しながら座禅し続けた為、達磨大師のように躄(いざり)になりました。

しかし、マハヨギ・パイロットババジ猊下と23人のヒマラヤのアヴァター(化身・権現)様達の神秘的な力によって、私は僅か三日で歩行できる身になりました。

脊髄損傷している私のMRI画像を見た医者達は「この状態で立てるなんて奇跡です!学会でも報告されていません!」と口を揃えて叫んだものでした。

私は現在、座禅して瞑想することが出来ない身体になりました。しかしながら、座って瞑想しなくても大丈夫なのです。今回、ゆきさんが自然に体得したように、私は「他人が瞑想しているスペースをそっくりそのままいただける技」をいつのまにか身につけていました。

それは簡単です。そのコツとは、相手をジャッジせずに、そのまま受け入れることです。ただ空になることです。

心を空っぽにして相手の良いところを受け入れることです。相手をジャッジしている人、人それぞれの色んな状況を考えずに説教する人は、他者の瞑想スペースを受け取ることが出来ません。

特にババジ猊下のような偉大な覚者をジャッジする人は、最悪のカルマを作ると言われています。これこそが魔境です。知らず知らずのうちにそうなっている人は、どうか魔境を克服して欲しいと祈るばかりです。

反対に人の瞑想性をリスペクトできる人は、自然に瞑想スペースを共有できるようになります。エゴを明け渡し、自分を空っぽにすると自然に仏性が流入するのです。

我々がすることは、コップの中のエゴを捨てればいいだけです。ただそれだけです。疑い、ジャッジメント、非難、上から下の目線の傲慢さなど、ありとあらゆるゴミを捨てればいいのです。

自分が正しいと思い、マスターをジャッジする人は何も受け取れません。それが出来ない人は、覚者と何十年一緒に居ても何も起こりません。自分が絶対的に正しいと信じて覚者をジャッジする人は、世間にたくさんいます。

 「インド2000万聖者の最高峰」「現代の仏陀(覚者)」と称賛されるババジ猊下さえジャッジする愚かな人々を、私はたくさん見てきました。そういう人間の言うセリフはいつも決まっていました。

「皆はババジに妄信しているけれど、私は違う。言うべきことははっきり言う」

こういう傲慢なことを言う人は、決まって、全く瞑想が出来ず、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒、つまり、貪り、瞋り、疑いが強い人でした。雑念だらけでエゴが強烈に強かったものでした。そういう人たちは劣等感の裏返しで瞑想性の高い人を見下していたものでした。ババジ猊下にさえ、見下す態度をとっていた人が居たのですから呆れました。

ババジ猊下は確かに神人の側面はあるけれど、同時に不完全な人間の側面もお持ちです。ヒマラヤのアヴァター様でさえそうなのです。そんなことは当たり前のことなのです。

生物は、ファジーな部分があるからこそ進化するのです。完全なら進化は止まります。だから、不完全とは完全さの裏返しでもあります。不完全というところに真理が隠されているのです。

ヨガは科学です。だから偶像崇拝はしません。

「美人女優は食事もしないし、トイレにも行かない完全無欠な存在だ」というコミカルな偶像崇拝、漫画的な神話をヨガは信じません。

一部の大衆の為に神話を利用することはあっても、覚者は神話が神話に過ぎないことを知っています。

今から25年くらい前に、ババジ猊下が私に「グルになりなさい」と命じた手紙をくださったことが有ります。このお言葉を伺った後に、私はこうお答えしました。

「私は宇宙意識体験をしましたが、未だに普通の人間です。人生で色々しくじってきました。とてもマスター役は務まりません」

猊下は私にこうお答えになりました。

「我々は人間だ。神ではない。だから失敗もする。失敗すれば、それを正せば良いだけだ」

そのお言葉は私の内奥まで沁み込みました。ババジ猊下のような神人が「我々」と仰ったことに、私は大変感銘をうけました。

私は元来、神話を鵜呑みにしないタイプの仏教研究者でしたから、「人間仏陀」、神の子ではない「人の子イエス」の考えをずっと支持してきました。

「天上天下唯我独尊」という神話を本気で信じている仏教者と会ったことはありません。今まで一人も居ませんでした。

ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中でキリストを「若き神」と称しました。

イエスが磔刑にあう前に寺院で貧しい両替商を鞭打った苦悩を、ニーチェは弱さとしか受け止められなかったのでしょう。彼は教会キリスト教に絶望して「神は死んだ」と宣言しました。ゾロアスター教から永劫回帰思想や超人思想を学び、キリスト教を否定しました。因みに、ツァラトゥストラとはゾロアスターのドイツ語訛りです。

教会キリスト教が捏造した「神の子イエス」の偶像化に反して、人間イエスの印象はあまりにも人間的だったから彼は失望したのでしょう。

しかし、何故そこに失望しなければならないのでしょう?私は弱くデリケートな「人間イエス」が大好きです。

ニーチェの失望は、美人女優がトイレに行くことを知って失望する人の感性と本質的には変わりません。かつては教会キリスト教が神格化して駄目にしてしまったキリスト像を信じていたに違いありません。だからこそ、人間イエスに我慢がならなかったのでしょう。

そうだとしたら、教会もニーチェもコインの裏表です。私にはどっちもどっちに見えます。

私は、ババジ猊下が人間の側面を持っているからといって、失望したことは一度もありません。覚者が人間だなんて、そんなことは当たり前です。

それが分からない人は、肉体のババジ猊下にお会いしても猊下の神聖に触れることはできません。肉体で出会っても、一度もお会いしていないことになるのです。

猊下のハートに触れた人は決して離れません。もし貴方が幸運にもババジ猊下にお会いすることが出来たなら、過去世からの宿縁を慶んでください。

猊下にお会いしても、準備が出来ていない人は猊下の人間的要素を許容できなくてこぼれ落ちていきます。

覚者も人間だと言うことは、美人女優がトイレに行くくらい当たり前のことです。美人女優はトイレに行かないと本気で信じている人はむしろ異常です。

「覚者は人間の要素を持たない完全なる存在だ」という完全神話こそ不完全なのです。

この世界はビデオゲームのようなマーヤ(幻想)の世界です。物質が有り、物理法則があるマーヤの世界です。

切れば血が出るマーヤの世界の中で、どんなキャラを使用してゲーム世界に登場するかは、その人の選択なのです。人間臭い覚者の方が人間に近いだけ、人間のマインドをよく知っています。キャラはあくまでキャラなのです。

覚者の表面的なキャラを見て、覚者の神聖さを見逃せば貴方はアセンションから見放されるでしょう。

「サンカルパヨガ瞑想リトリート at 静岡で、半数近くの参加者が神秘体験をしました」と発言したら、この体験談を発表する前に、「瞑想初心者だから神秘体験が起こりやすい」とか「禅なら魔境に陥ると直ぐに切り捨てる」とか「解脱を求めて発狂する人が多いからやめた方が良い」という意見を述べた人もいました。

はたしてそうでしょうか?

これから申す私の以下の意見はそう述べた人に対する批判ではありません。

私はこうした「よくある発言」に対して私の考えを述べることによって、その人たちの霊的成長に寄与できればと願っています。だから批判されたとは思わないでくださいね。

初心者に神秘体験が起こりやすい理由は、素直で謙虚だからです。だから諺にも「初心忘れるべからず」とあるのです。

瞑想初心者は素直で謙虚だから神秘体験が起こりやすいのです。少しばかり瞑想が出来てきたと勘違いすると何も起こらなくなります。ここが分かっていない人は「初心者には神秘体験が起こりやすい」などと、上から下の謂いになるのです。

又私の記事を読んでいただければ分かりますが、私は何度もサイキック信仰を批判して「禅では魔境に陥る」という発言をしています。

それこそが、仏教者時代から一貫して変わらない思想なのです。

スワミジ師からの返信No.2

2019/11/27

マハヨギ・パイロットババジ猊下は私にこう仰いました。

「この世界には二つの道がある。サイキックに至る道と、サマーディー(ニルバーナ)に至る道だ」

知ったかぶりの反論に付き合う暇はないので、一つお断りします。私がサマーディーという場合、その意味は仏教で言えばニルバーナ(涅槃)であり、ジェイン教(英語訛りだとジャイナ教)でいうモクシャ(解脱)と同じです。

釈尊以降の仏教が、ヨガ・ヒンドゥー教のサマーディーの概念を「集中」という意味に矮小化していますが、こういうのはつまらない宗派主義の産物です。

ポップなヒンドゥー教とポップな仏教はお互いけなしあっています。我々には無縁な世俗的宗派主義の世界です。覚者の教えでさえポップ化すると駄目になります。

釈尊は八正道の最終地点をサマ・サマーディー(正定)と言っています。正しいサマーディーという意味です。これは明らかにヨガの概念です。

ニルバーナだって元々ヒンドゥー教の概念です。インド人は仏教やジェイン教、シック教をすべてヒンドゥー教の一派に過ぎないと考えています。ヒンドゥーの訛りがインドです。だからヒンドゥー教とはインド教と考えたほうが分かりやすいのです。私は仏教とヒンドゥー教に何の違いも見いだせません。

ババジ猊下がダライ・ラマ法王をインド最大の祭典であるクンブメーラに招待した時、ダライ・ラマ法王が「我々はヒンドゥーブラザーズだ」と答えたことに共感を覚えました。

今は宗教者が「ワールドピース・キャンペーン」「 ガイア(母なる地球)保護」「人類覚醒」のワークに向けて一致団結するべき時代です。宗教は人類の覚醒を目指すものです。私には宗派の争いが悲しいものにしか見えません。

インドに生まれた宗教の開祖は全員インドの言葉を使っているのです。仏教用語はパーリ語、後年になって梵語(サンスクリット語)を使用しています。サンスクリット語はヒンドゥー教の宗教専門用語であり、ブラーミン(僧侶)だけが学習できました。

さて瞑想初心者に神秘体験が起こりやすい理由は、彼らが初々しく、勘違い上級者のように傲慢にならないからと言いましたが、もう一つ勘違いしてならないことがあります。

それは、瞑想初心者というのは、あくまで今生においてという意味です。過去世で厳しい修行をしてきた人が今生瞑想に出会った場合には、神秘体験はすぐに起こります。

釈尊は修行を始めてから6年後に正定(サマ・サマーディー)を成就しました。ババジ猊下は修行して2週間後にサマーディーを成就しました。後代になるほど、過去世からの修行者が覚醒する期間は短くなっています。

過去世での修行が結実するので、現代においては「この人が?」と思える人が覚醒しています。それは事実です。それは過去世で彼らが修行してきたからです。

瞑想初心者に見えた人が、実は歴史の教科書に登場する偉大なマスターである場合も多いのです。だから侮ってその初心者に説教を垂れると、後で恥をかくかもしれませんよ。

過去世で修行してこなかった人は、今生でサマーディーを成就することが難しいのは確かです。サマーディーは一生や二生で成就できるものでは無いのです。そのような人は、もう残された時間が少ないことを自覚して、毎日修行すれば良いのです。その場合、焦らずに楽しんでやるのがコツです。

又、貴方が幸運にもババジ猊下やヨグマタジのようなリビングマスターにお会いできたなら、過去世からの宿縁を慶んでください。

肉体ではリビングマスターにお会いしても、魂では一度も会えなかった人々の失敗を糧にしてください。彼や彼女たちの失敗を繰り返さないようにしてください。

次に、神秘体験、或いは瞑想体験が起こった場合、陥りやすい二つの課題があります。それは「神秘体験と瞑想体験との違いは何ぞや?」とかすぐに哲学に走ることです。私も研究者の端くれだったので最初はそうなりました。

哲学、思想は言うまでもなくマインドに属します。マインドで遊んでいる暇があったら、瞑想して内側に入る方が良いのです。そう気づいてから、私はあれこれ考える悪い習慣を止めました。

学者になりたければ哲学や思想に走るのも良いけれど、覚者になりたければ心を空っぽにすることが肝要です。

貴方に真の瞑想体験が一日に何十回、何百回と起こっているなら、或いは貴方に神秘体験やサイキック体験が一日何百回も起こっているなら、何が瞑想体験で何がサイキック体験であるのかは自ずと判るはずです。それが解らないとするなら、貴方にはまだまだ体験が足りないのです。まだまだ修行しなければならないのです。

人のジャッジをしている場合ではないのです。貴方ご自身の為に内側に入ってください。

貴方が何ほどかの神秘体験をしたのなら、それを起こさせるようにしてください。

一回や二回の神秘体験では満足せずに、次々と起こらせるようにしてください。

貴方に瞑想体験が起こったのなら、貴方は神の恩寵に感謝して、それを再び起こさせるようにしてください。

これが神秘体験で、あれがサイキック体験だなどとマインドで余計なことを考えて、新たな体験が起こることを邪魔しないでください。

私はヒマラヤでの瞑想中に、一日何百回もの神秘体験を繰り返していました。あれこれマインドで考える暇などありませんでした。それをしていたら瞑想体験も神秘体験も、サイキックな体験も起こらなかったでしょう。

ニルバーナやサマーディーは「体験なき体験だ」などと、自分は覚醒を体験もしていないのに、借りてきた知識で他者をジャッジすれば自分は取り残されていくと自覚してください。

言葉の定義は、所詮定義にすぎません。瞑想の世界は言葉に表せない世界を言葉にしているのです。

瞑想体験を妨げるもうひとつの問題は、増上慢に陥ることです。

瞑想を始めたばかりで神秘体験が起こるのは、過去世から修行してきた人だと言いましたが、その人でも神秘体験が起こらなくなる時期が来ます。それは大抵、増上慢に陥っている場合です。

私は36歳の時、インドで瞑想に出会いました瞑想を始めて1週間後に神秘体験が起こりました。

しかし、それは初めての神秘体験ではありませんでした。生まれて初めての神秘体験は、私が記憶する限り小学生の時でした。 

或いは幼児期に何度もあった気はするけれど、それを神秘体験と認識する知性はありませんでした。多くの人は幼児期に神秘体験をしているけれど、それが神秘体験として認識できていないだけかもしれないと私は思うのです。

以前に書きましたが、私は17歳のある日、ふいに座禅をする気になりました。そして座禅してから15分くらい過ぎた後に「光に還る」体験をしました。

その後も神秘体験は起こり続けました。瞑想して神秘体験が起こったのではありません。勝手に起こったのです。私は無神論者で宗教が大嫌いだったので、瞑想をしたことはありませんでした。

インドで瞑想を始めて1週間後に神秘体験が起こりました。それから毎日神秘体験が起こるようになりました。そして1日に何回も神秘体験が起こるようになりました。

その流れが、ある日突然止まったことがあります。私の中に慢心が出来て、他者の体験に嫉妬したり、ジャッジするようになった時にそれは停止しました。私がそのことに気づいて初心に帰った時に、再び神秘体験は起こりました。

ヒマラヤで瞑想した頃は、1日数百回の神秘体験が起こり続けましたが、どなたかが心配するように精神的におかしくなることはありませんでした。

瞑想をし始めてから、三次元的には大変なことが起こり続け、それこそ、発狂しそうになるような困難に襲われることもありました。だからと言って、私はセラピーを求め低い次元に堕ちる道は選びませんでした。

それは成長にとって必要な「成長の病」でした。中途半端なところで瞑想を止めれば、折角覚醒に向かって貯め込んだエナジーが無駄になります。

ババジ猊下や太母(たも)様は「セラピーなど受けたら覚醒できなくなる」とよく言ったものです。煩悩即菩提と言って、煩悩は覚醒の種子なのです。

瞑想を続ける中で神秘体験が起こり、それが単なる精神障害で終わるとするなら、やり方に何か問題があるからです。

失敗例しか知らない人は「解脱を求めておかしくなる人が多い。だから解脱を求めるのはおかしい」などと短絡的で馬鹿げた見解を持ちがちです。おかしくなる人がいるからと言って、覚醒を求めること自体がナンセンスだと言うのは愚かしいことです。

ババジ猊下やヨグマタジ、釈尊のように、覚醒を求めてニルバーナを成就した人たちは沢山いらっしゃいます。「覚醒を求める人は精神障害になる」という方の意見が正しいとするなら、すべての覚者が「マーヤ(幻想)から目覚めてサマーディーを成就しなさい。ニルバーナを達成しなさい」と主張するのは、全部間違っていることになります。

でも、私は釈尊やババジ猊下のような本物の覚者の主張が間違っているとは思いません。それは考えるまでもありません。

半端な瞑想者は瞑想初心者に対して偉ぶって説教したがるものです。でもこんなことを考えてみてください。赤ちゃんがやっとよちよち歩きするのを見た親は、赤ちゃんをジャッジするでしょうか?「あら〇〇ちゃん。ハイハイが出来るようになったのね!凄いね!お利口だね!偉いね!」と言って褒めるはずです。褒められた赤ちゃんは嬉しくなって、もっと頑張る気持ちになり、やがては立って歩けるようになります。だからたくさん褒めてあげましょう。

赤ちゃんが慢心してもそれは構わないのです。だって赤ちゃんなのだから。赤ちゃんは褒められて嬉しくてにっこり微笑みます。それのどこが悪いのですか?

よちよち歩きをしたばかりの赤ちゃんに、「こんなことで慢心してはいけない。禅なら魔境に陥ると言う」などと説教する親はいないのです。

神秘体験が起こったら、それを起こらせるようにするのがマスターの役割です。それが十分に起こり続け、横道にそれた時に初めて「魔境に陥る」と諭すのです。ババジ猊下は「それを起こさせるようにしなさい」と言っています。Oshoも同じことを言っていました。

あらゆる覚者は、「貴方がサマーディー(ニルバーナ)を達成してシッディー(悉地と音写、神通力)がついたらすぐに落としなさい」とも言います。覚者の教えは常に対機説法なのです。それはサマーディーのスタートラインであるエンライトメントを成就した人が、シッディーパワーを得た場合の話です。

サマーディーの第一段階であるエンライトさえも成就したこともない人が、耳学問の浅はかな知識を振り回し、せっかく神秘体験をしたばかりの人に要らぬ説教して覚醒の芽を摘んでしまうのは、愚かというより犯罪に等しいのです。

他人の心配をするより、どうかご自分の心配をしてください。

「スワミジ師がわたしをトントンして
ベルを促したのかな?と
薄眼を開けると居なかったり
後ろから明らかに気配があって
わたしの頭の上や後ろから
エネルギーの圧を感じたけれど
スワミジ師は居なかったり
群青色のブーンと音のするエネルギーを感じたり」

肩をトントンと叩かれたので私が叩いたと思った人が他にも何人も居たことは驚きでした。

「マスターの臨在を感じなさい」とよく言われます。マスターの臨在は、最初はエナジーとして感じるようになります。或いは、数人のリトリート参加者が仰ったように、明らかに肉体として感じられる人もいます。マスターが視覚化できる人もいます。それはタイプの差です。

マスターの存在を肉体として感知出来た人としてとても有名な人がいます。ラーマクリシュナです。彼は、近代インドの覚者として、パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリやラマン・マハリシ(英語発音ではラマナ・マハリシ)と並んで必ず紹介される方です。

彼はカーリー女神を愛していました。ラーマクリシュナの前にカーリー女神が実体化して現れた話は有名です。

瞑想中にこういうことが起こるのは素晴らしいことです。それは貴方の瞑想が非常に深く進んでいる証拠です。

私も瞑想中、ババジ猊下の臨在を感じることがしばしばありました。ラーマクリシュナは感じるだけではなく見えるタイプの人だったようですが、実は見えなくても感じるタイプの人も多いのです。それはタイプの差なのです。視覚化できるタイプも居れば、聴覚化できるタイプも居るのです。匂いで感じる嗅覚タイプもいるのです。色んな人がいて良いのです。

「いろんなことが起きたけれど
なにより変化を感じたのは
そういうものを追わなくなったこと。」

どうですか?ゆきさんは魔境に陥っていますか?「そういうものを追わなくなったこと」と仰っているのだから魔境には陥っていませんね。

私は体験談を公開する前に、今回のリトリート参加者の半数が神秘体験をしたと書きました。体験談を読む前に「禅なら魔境に陥る」などと仰った方もいらっしゃいましたが、早とちりでしたでしょう?

どうぞ、ご自分の隠れた傲慢さに気づいてください。それを認めるスペースのある方は霊的進化することは請け合いです。私は貴方達を批判しているのではありません。ただ、貴方自身の無明に気づいていただき、貴方の本来の面目に、真実の貴方に還って欲しいのです。

Om Shanti Shanti  Shanti  Om(愛と平和を)

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