2019年静岡リトリート資料No.5

2019年10月6日

 最近、私の記事を読んだ読者から「記事を読んで魂がふるえます」「ものすごい説得力です」といったような有難いお言葉を頂戴しています。本当に嬉しいです。私の励みになります。

私はただ起こったことを、ありのままに書いているだけです。起こったことを書いているだけだから、書くのにさして苦労はしていません。

私が体験したことを想像して書けるのなら凄い作家になれそうですが、小説としては偶然に次ぐ偶然がありすぎて話を創った印象を与えます。

疑い深い人には更に疑念を抱かせることでしょう。しかし、事実は事実ですから、私にはどうすることもできません。まさに「事実は小説よりも奇なり」です。

私の場合、何十年もの間、考えられないほどの偶然が続いてきたのです。一度や二度の偶然なら偶然と言えましょうが、五回、六回と立て続けに続けば、流石に何かを感じます。それがずっと続いてきたのなら、もう考えることはありません。

大きな力に逆らい、あくまで合理主義者で居続けるのは不可能です。最終的に、私は存在にサレンダーしました。マハヨギ・パイロットババジ猊下とヒマラヤのアヴァター様達にサレンダーしました。

ババジ猊下は、過去23人のアヴァター様を統一する24番目のアヴァター様としてインド最大のサドゥーの団体である【ジュナ・アカラ】にも認められています。

23人の中には「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラ・ギリ・ババジ(通称マハ・アバターラババ)やアバターラ・ギリ・ババジ、そしてインドの神様人気ナンバーワンのクリシュナ神まで含まれているのですから驚きです。

この途方もない話を、【ジュナ・アカラ】やインド政府に認めさせた猊下の威神力には驚嘆させられます。

【ジュナ・アカラ】は世界最大の聖者の祭典である「クンブメーラ」をコントロールしています。

今年2019年に行われたクンブメーラには、なんと、のべで1億3万人の人が世界中から集まりました。そのクンブメーラの最高指導者がババジ猊下です。

私の過去を冷静に振り返って見ると、私の霊的進化に大きくかかわる出来事の裏には、必ず大きな力の働きかけがあったと気づきました。その大きな力の源はババジ猊下であったと気づかされた時、私は猊下の大慈悲に感謝して涙がでました。至福に包まれました。

ババジ猊下の師で23番目のアヴァター様であるハリ・ババジは、猊下が危機に陥ったとき常に空中から物質化して現れ、猊下を助けたと『ヒマラヤへの扉』に書かれています。

私はこれまでの人生、何度も命を落としかけたことがあります。それにも関わらず、今まで無事生き永らえてきました。19年前に「後三か月の命」と宣告されたのに、ぴんぴんしています。

あの当時の私の状態なら本来なら、意識はなく植物人間状態のはずだと高名な中国医学の医師は言いました。私は気づかなかったけれど、幼き頃より猊下の恩寵を賜っていたのだと悟りました。

元来、科学主義者だった私でさえギブアップするほどの偶然に次ぐ偶然が何十年も続き、その結果ヒマラヤの聖地でババジ猊下に邂逅しました。

その時は、猊下にお会いしたのは偶然だと思っていたのです。猊下にサンカルパヨガ瞑想を導いていただく内に「これは偶然なんかであるわけがない」という揺るぎない確信が内側から沸き起こりました。

私のエゴが溶け、疑問が氷解して、私のマインドが空っぽになった時、自然に私の内側から絶対的な信頼が湧き出てきました。その信頼を親鸞は他力回向の信心と言っています。

他力というと、仏教に無知な方は、他者に依存することだと誤解しています。そうではありません。他力の他とは阿弥陀仏のことです。つまり、他力本願とは仏力本願という意味です。

他者に依存するという意味などではありません。

例えばこういうことです。自分の疑い、斜に構えた態度、質問などのエゴやマインドを落としていけば、自分は空っぽになります。自分が空っぽになると、内側に元々あった仏性が発現します。

元々内側に在った仏性の力が他力です。仏力です。従って仏は外側にあるのではなく、元々内側にあるのです。その内側の仏の力を他力というのです。

そして「ああ自分というエゴは幻想だった。自分の本性は仏陀だったのだ」と頷きます。

有名な禅マスターの渡辺南隠にこんな話があります。

ある日、質問で頭が一杯の修行者が高名な南隠の寺院を訪問した。彼は、知識はあるが体験が伴っていない頭でっかちの学僧だった。そのマインドだらけの修行者に対して、南隠はこう言った。

「まあお茶でも飲んでリラックスしなさい」

南隠はお茶を茶碗に注ぎ始めた。それはすぐに一杯になった。しかし、南隠はお茶が茶碗一杯になっても注ぎ続けた。お茶が溢れ出ているにも関わらず注ぎ続けているのを見た修行者がこう言った。

「師よ!貴方は何をされているのですか?お茶がこぼれていますよ」

南隠はこう修行者に答えたという。

「そうだろう、貴方は質問、疑念などのマインドで一杯だから思考が溢れ出ています。だから、貴方の内側には何も入っていかない。先ずは茶碗の中の、お茶、即ち、雑念を捨てなさい」

ここから先は私の解釈です。

コップの中の水を捨てれば、コップは空になります。空とは仏性です。雑念を捨てた途端に我々は仏陀に還ります。仏性に還ります。

仏性は創り出されたものでは無く、元々そこに在ったものなのです。我々は本来神であり、仏陀であるのだが、無明の黒闇に覆われていて気が付かなかっただけだと気づきます。

だからコップの中の水を捨てることです。捨てれば勝手に空気がコップに流入します。空が入ります。我々が自力でできることは、コップの中の水を捨てることだけです。

このことを別の言葉で言えば、梵我一如といいます。仏教で言えば、阿弥陀仏や大日如来と同等になるということで、禅で言う小さな悟りではありません。大悟徹底でさえもありません。大悟徹底を遥かに超えたサマーディーの世界です。

阿弥陀仏の語源は梵語のアミタです。アミタは無量(無限)という意味です。アミターバと言う場合は無量の光という意味です。アミタユースという場合は無量の命となります。

所謂エンライトメントとは、無量の光と至福、無量の命の世界を示します。つまりそれは不死の世界です。それが極楽世界です。

キリストは「神の国とはどういうものでしょう?」と聞かれたとき、「神の国は光の国だ」と答えています。即ち神の国とは、エンライトメントの世界です。

極楽浄土と言われる光の世界に往生すれば、後は勝手に高次元の世界に上昇します。

極楽とは、楽の極みと書きます。楽の極みの生を送りながら、すべてが更なる高みの世界に上昇させてくれる有難い浄土です。

極楽浄土とは光の世界のことであり、仏教だけの世界ではありません。ヒンドゥー教やキリスト教など宗派を超えた光の世界です。

光の世界を仏教では極楽浄土と名付け、キリスト教では天国と名付けただけのことです。

そして、一番大事なことは、光の世界にはサレンダー(明け渡し)だけで往けることです。信仰だけで往けるのです。

だから多くの覚者は「先ずは光の世界・エンライトメントの世界を目指しなさい」と言うのです。

ヨガスートラでは、第二サマーディーが光の世界と定義されていますが、ババジ猊下は「あれは方便であり、本当はサマーディーの第一段階が光の世界だ」と教えてくださいました。

最初この話を伺った時は、腰を抜かしそうになりました。私はそれまで、エンライトメントの世界が最終ゴールだと思い修行してきました。そのエンライトメントが「サマーディーのスタートラインに過ぎない」と知らされたのですから驚いて当然です。

チベット仏教で言えば、阿弥陀仏や大日如来は光と無量の命、不死を象徴する偉大なる仏陀です。その存在と等しい存在になっても、それがスタートラインと聞けば、驚くのも当然です。

でも私は自分の体験を振り返り、すぐに納得しました。

因みにタントラで往けるのは光の世界までです。それ以上はヨガの科学の助けが必要です。

ダンテス・ダイジ師もこのことを理解していました。流石です。

ヨガスートラによれば、光の世界よりさらに三段階上のステージがあります。

二段階目はいわばビヨンド・エンライトメントです。

三段階目がビヨンド・ビヨンド・エンライトメント、四段階目がビヨンド・ビヨンド・ビヨンド・エンライトメントです。

それでもこの時点では、マーヤ(幻想)の世界から完全に抜け出ていないのです。そこから更に真我独存というステージがあります。

先が長いと思ってあきらめる人は輪廻転生の中で永遠に苦しみます。

私はババジ猊下やアヴァター様達を信頼していますから、焦らずに、大きな流れ、大きな意思に呼応してリラックスしながらワークをしています。

アヴァター様達やババジ猊下に対する信頼は、最初から私の内側に存在していたものでした。

私のエゴがその「内なる信頼」を闇で覆っていただけでした。いわゆる無明の黒闇が晴れたとき、元々内側に在った仏性が顕現しただけなのです。コップの中の水、即ちマインド、雑念を捨てたら空が出てきたのです。

空とは無心であります。無心には何段階もあります。真実の無心とは、修行者が思っている無心の遥か彼方にあります。しかし、無心が訪れるのは良いことです。

私はマスターになりたいとか、ビジネス的に成功したいとか、そんな思いはさらさら持っていません。

これまで投稿した記事のような話をすると、世人から非難され、足を引っ張られ、さんざん不快な思いをしました。ちっとも楽しくはありませんでした。だから20年以上隠遁生活をしてきたのです。

キリストのような法難を蒙ったわけではありませんが、神経がズタズタになるような試練をたくさん潜り抜けてきました。そんな嫌な思いをしてまで、偽マスターになりたい人の気持ちが、正直、理解できません。

私の人生でビジネスに関わったことはないし、今後もその気はありません。まして瞑想という人生最大の楽しみをビジネスにしたら、楽しみが無くなります。

でも今は、以心伝心で集まってきている人達とワークができています。それがとても楽しいのです。

ワークをする以上、必要経費はかかります。その分だけは、オーガナイゼーションから支払って頂く形でやっています。

私は私の話を高い次元で悟る人たちにお会いしたいだけなのです。

今まではうんざりするようなことが多かったのですが、人類が壊滅するか否かの瀬戸際になって、目覚めつつある人たちが増えているのを見てとても嬉しいです。

とても幸せです。

Om Shanti Shanti  Shanti  Om(愛と平和を)

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