2019年静岡リトリート体験談 No.3

2019/10/23

2019年10月開催 サンカルパヨガ瞑想リトリート at 静岡の体験談をご紹介します。

スワミジ師の返信はこちら

加地典子様

台風の中でのリトリート。ホントにやるの?なんて思いながらの参加でした。

私の不安も大浄化だ、と言ってくださる他の参加者の方からの言葉に妙な安心感を感じて伺いました。

前回のリトリートからいただいた課題は、どんな人からいただいたどんな嫌な感情も自分が知りたかったのかもしれない。それを受け止めて感じきることでした。

次のリトリートではきっとトラウマが出てしまう。一緒に参加する皆をこんな嫌な感情に晒したくない。そう思ってストイックさの欠片もない私が珍しく毎日サンカルパヨガ瞑想に励んで参加しました。

毎日吐いて、毎日悪寒を感じて、毎日震えて泣いていました。まだ取りきれないものがあるのを感じての参加でした。

初日の瞑想に入ったとき、震えが止まらなくて悪寒と吐き気で倒れそうになっていました。逃げ出したくなりました。

でもほんの5分くらいでそれが抜けていきました。するとフッと無心になれました。

今回のリトリート中、スワミジ師の講話をじっと聞いているとスワミジ師の顔以外の目に移る景色、人々全てがブロックのようになっていきました。画素が荒くなったテレビの画面のようでした。

この世は全て幻想というスワミジ師の話や物理学の方が言う、見ようと思うから物質となるという話はホントかもしれないとフッと思いました。幻かと思いましたが、他の参加者の方も同じように見えていたと話してくれました。

瞑想では気持ち悪さが抜けて 無心になると台風が近づく強風のなか、植物たちの大声が聞こえました。ずっと見守って愛で癒し続けてくれた植物を思って涙が止まりませんでした。

私は植物と接するなか、八つ当たりのように植物に触っていたこともあります。

今でも植物がくれる愛に対して、全く同じ純粋な愛を向けられていないのではないかと胸が苦しくて涙が止まりませんでした。

人間にはあんな純粋な愛がないのではないか。スワミジ師からは感じるけど、それは覚者まで至れる一部の人だけではないかと思いました。

すると自己紹介の時にある方が亡き師を思って言葉を詰まらせていました。無言の数分。その数分は私にとって初めて人から純粋な愛を感じた瞬間でした。

まだまだ植物への愛への苦しさに泣き続ける私でしたが、ババジがすっと入ってきて「愛は永遠だ」と言ってくださいました。

もうそれからはさらにガンガン泣いて、植物たちからも「大丈夫だよ」と言ってもらいました。そしてまたガンガン泣く泣く。

3日目にある方が蚊に刺されたかゆみをどうにかしようと必死にサンカルパヨガ瞑想をしていました。ツボに入った私は、今度は笑い出したい衝動を必死に堪えていました。

なんとか堪えていたのに、ババジは、今度はイビキをかく参加者を、光で照らします。吹き出すのを泣いてる風に見せかけてやり過ごしたつもりでした。

でも他の参加者の方にはバレバレで(笑)

夜に話をしていると「泣くのも笑うのもうるさいのは一緒だから笑っちゃえば」とありがたいお言葉。

言ってくれた方は「私はマジメだから笑わないけどね」と。

そこで前日にツボに入った方の後ろへ。ともすると笑われてるとムッとされてもおかしくないこの行動もその方ならきっと大丈夫という安心感もありました。

瞑想を始めるとその方からイビキが!!かゆみはあんなにストイックに何十分もサンカルパヨガ瞑想で飛ばしてたのに!!ツボに入った私はまた笑いを堪えるはめに。みんな静かに瞑想してるのにさすがに笑いはどうかと。

必死に堪えていたらハリババジがいらして「笑ってあげて」と。許可が出たならとそれからは大笑い。私は笑わないと言ってた方も大笑い。それがツボって大笑い。治ったら寝ながらサンカルパヨガ瞑想してる人にツボって大笑い。笑い続けたら幸せが広がってユラユラしました。

ババジがやって来て「幸せか?」と聞くので「Yes!!Yes!!Yes!!」とお答えしました。

最終日、スワミジ師が講話のなかで観音様のお話をしたのが印象に残っていました。お話を聞いたときにそれを私は知っていると感じたからです。

瞑想中に過去生を感じました。それは苦しいものでした。自己犠牲。何度転生しても同じような日々なのを感じました。それでも少しずつ人々が癒されていくのを感じました。ああ、やっとここまで来たんだ。ゴールは近いと感じました。同じことを反対側からやって来たソウルメイトとここで出会えたんだ、私たち頑張ったねとソウルメイトに呼び掛けました。

私は自覚が無かったのですが、サイキックなんだと思います。ババジやアバター様を確かに感じたし、言葉やお姿もはっきり見えます。

でもこのサイキックは手放します。サイキックで過去を思い出してもロクな思い出は出てこないでしょう。憎しみが出るかもしれません。ババジやアバター様が確かにいること、植物の声が聞こえただけで十分です。

次回までに、魂までしっかり癒す。自分を犠牲にしない。人の愛を信じる。これが今の課題です。

爆笑させてくれた皆様、ババジ、アバター様。ご一緒した皆様、素晴らしい会場を提供してくださいましたお寺様、美味しいご飯を作ってくれたSZさん、温かい布団を用意してくれた布団屋さん、素晴らしいリトリートを準備されたスタッフの皆さん、最後にここまで導いてくれたスワミジ師。ありがとうございました。

帰ってきて地元の人達が心配になりあちこち顔を出しました。私は上手くマインドが戻ってこなくて私であって私じゃない状態でした。お会いした何人かは私の顔を見ただけで涙を浮かべていました。

地元は江戸時代からの植木の産地。皆、先祖代々植物の仕事をしている人ばかり。植物の癒しの力で心が美しい人ばかりです。私から何か感じたのかもしれないと思っています。

スワミジ師からの返信

皆さんの体験談はとても素晴らしく、逐一お答えしたい部分が満載ですが、重要な点についてお答えします。

これは他の皆さんについても同じですのでご了承ください。

典子さんはこう言っています

「私は自覚が無かったのですが、サイキックなんだと思います。ババジやアバター様を確かに感じたし、言葉やお姿もはっきり見えます。

でもこのサイキックは手放します。サイキックで過去を思い出してもロクな思い出は出てこないでしょう。憎しみが出るかもしれません。ババジやアバター様が確かにいること、植物の声が聞こえただけで十分です。」

仰る通りです。ババジ猊下は私にこう仰いました。

「この世界に二つの道がある。一つはサマーディーに至る道。もう一つはサイキックの道だ」

サイキックの道は「私は他者より優れた能力がある」などと慢心に陥りやすく、解脱を阻害する要因になるので、猊下もドキュメント映画下『サマーディー』の中で「サイキックな力がついたら即座に落としなさい」ということを仰っています。仏教でもそう言います。

でも例外はあります。典子ちゃんが植物とテレパシーで交流することや、IMさんが動物とテレパシーで交流することです。

二人とも「私は動植物とテレパシーができる」などと慢心していません。ハートで交流しているからです。

ハートは道を間違えません。だからそれはサイキックの道とは違います。

もっと植物と触れ合い、動物と触れ合ってください。そうすれば人間のマインドの汚さからは解放されます。

植物や動物のピュアな魂に感動すれば、最初は人間のエゴが嫌いになりますが、次第に人間の愚かさに対して慈愛の心を持つようになります。

人間嫌いの人の多くは、ハートフルで本当は人間が好きな人が多いのです。ハートフルな人は、ハートを忘れてしまった人間に対し、悲しみ、その悲しみが怒りに変容します。

しかし、瞑想の中で本当の自分に出会っていく中で、くだらないマインド世界で四苦八苦して生を浪費している人々に対し、慈悲心を抱くことになります。

慈悲の慈は慈しむという意味ですが、慈悲の悲は悲しむという意味です。

植物に愛され愛している典子ちゃん、ワンちゃんや猫ちゃんを愛し愛されているIMさんなら、何故慈悲という字が「慈しみ悲しむ」と書くのかお解りでしょう?

仏教では仏陀の慈悲心を「仏は衆生を慈しみ、衆生の愚かさを哀れみ、悲しみ、衆生の苦しみを取り除き楽しみを与えること」と説明します。

私が一番幸せだった時はヒマラヤで240日間不眠断食座禅をしていた時です。内側の世界に在り、アートマンに向き合えた時でした。

できれば人間のマインド世界に戻りたくは無かった。だから植物や動物とハートで繋がっている典子さんやIMさんの気持ちが分かるつもりです。

熊野以来、私は素敵な人たちに出会えて幸せです。ネット上ではつまらない言いがかりをつけている人もいるでしょうが、Just ignoreです。ただ無視します。関わる意味がありません。

ネガティブな人、心が貧しい人とやりあっても無意味です。

典子ちゃん、IMさん、もっと植物や動物と触れ合い、瞑想でセルフに出会い、生を豊かに生きてくださいね。

貴方たちは「いまここに生きる」ということの本当の意味を知ることでしょう。「いまここに生きる」ことを、享楽主義的刹那主義と誤解はしないでしょう。

いまここに生きることは、例えば、思考と思考の間の隙間にある空のスペースに入ることです。それも知らない人が「いまここに」というのは、遊んで暮らしたいことの言い訳に過ぎません。

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