2019年静岡リトリート体験談 No.5

2019/10/24

2019年10月開催 サンカルパヨガ瞑想リトリート at 静岡の体験談をご紹介します。

スワミジ師の返信はこちら

真綾様

スワミジ師、お寺のみなさん、ボランティアスタッフのみなさんはじめ、参加者の皆さん、

 あんなに気持ちのいい場にご一緒に過ごさせていただき、ありがとうございました。

私はきらきらスピリチュアルが嫌いで、その手の本を読み始めても途中で投げてしまい、不思議な話にはほとんど見向きもしていませんでした。

そんなんだったら面白いファンタジーの世界にどっぷり浸かった方が絶対に譲りたくない、自分にとっての本当のことを手放さずに済むし、言葉にしにくい大事なものをちゃんと見せてくれると思っていたくらいでした。

なので、紹介して頂いて読んだ 『あるヨギの自叙伝』には なんだこれ…こんな本があるんだと驚きました。

パイロットババジ様の『ヒマラヤへの扉』は (む、難しいです…)と思っていると横や後ろにふわっと気配が来て一緒に読んでもらっているような感じがするのですが、私の頭は大丈夫なのか…??と不安になりやめてしまっていました。なので、またゆっくり読み始めてみようと思います。

スワミジ師がしてくださる沢山のお話は色んなことがあって、すごい世界があるんだなあ…と肌では本当のことと受け取っていても頭がストップをかけたがり容量オーバーです〜…と眠くなったりしながら聞いていることもありました。

狭く小さな日常の中で負けん気だけ強くて、人を頼ることも下手で出来ない時期も長くあり、行き詰まって逃げたり諦めたりして自分は駄目だと思っていても、実は全然大丈夫なんだと助けてくれる人たちのおかげでだんだん力が抜けてきて。

それでもなかなか怖さを手放せずにいました。

だってさ、でもさ、私なんかさと、せっかく頂く温かい言葉に自分で水を差しては冷やしてきたように思います。

2日目の自己紹介で 自分の身に起こることが怖いです、面白がれないです。とスワミジ師に相談していた話をできたら

「すごく頷いていた人いたよ」と教えてもらえて自分だけじゃないんだと安心でき、全然周り見えてないんだなと気付いたり。

みなさんのお話を聞くうちに自分に水を差す暇もなく、温かな火種をたくさん頂いて励まされ続けていたように思います。

声が運ぶことばが まあるく優しくて、湯たんぽみたいだったり灯りみたいだったり、包んで貰ったり。

そうなんだ、そうなんだ…と

すとん、と受け渡しされていくものにひたすら圧倒されていました。

自分を駄目だと思うことでこれ以上おかしくならないように変わらないようにと、しがみついたし、素直に話を聞く裏で嫉妬も沢山しているんだな。

自分はすごいんだぞって思いたい自分からの反発もあるんだな。それに自分で向き合いたくなかったんだな。

虚勢を張ったり、どうにか分かってもらおうとか、どうせ聞いてもらえないしな、と自ら拒むみたいに頑張らなくていいんだなと、だんだん安心していきました。

話しかけることにすら躊躇して、いざ話せば早く終わらせようと焦り、なんだか一人前と大人に認められたい幼児みたいだなあと、今になって振り返って自分を微笑ましく笑えるときがあることを不思議に思います。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

掛け違えているボタンに自分で手をやってかけ直せるように、いつでも見直せるように、Facebookの記事やアメブロの記事にも自分の間違えたり勘違いした認識を見つけて確認できて、立ち止まって息をすることができます。

そっちに行くと大変だよと、声をかけて頂いているようにも思えます。

スワミジ師、ありがとうございます。

いろんな場面でみなさんに助けてもらってありがとうございました。

お堂でパイロットババジ様のお写真の前あたりに座ると圧倒されるというか、何か強すぎてぐったりしてしまう感じでしたが、みなさんの自己紹介を聞いたあとから、写真に向かい合って話しかけるようになったら、ふわぁっとなって、あ、助けの手を拒んでしまっていたのは私だったんだなと思って、(ありがとうございます。ごめんなさいでした。ビビリですけど改めてよろしくお願いします。)と伝えてみました。

11日当日まで、ほんとにわたし参加するのかな、行くの知っているけど行くけどさ…と ひとり心劇場の中でジタバタしていましたが、

教えて頂くことが出来なさ過ぎて笑ってしまったり、こわっ、と怯えると大丈夫だと、みなさんや見えないけどいらっしゃる存在の方々から声をかけていただいたり、自分を責めることなく楽しくなっていて、参加できてよかったなと思いました。

瞑想、座っているとなんだか待ち合わせみたいだなあと思って1人で笑ったりもしました。

待ち合わせ場所まで行くと向こうから来てくれて、一緒に並んで 歩く歩道に乗るような。歩く歩道がふわぁっと広がって向こうから空間が(?)来てくれるみたいな不思議な感じがしていました。

あ、来た。と頭で先回りしようとしたり、逆に留まろう、ついて行こうと身構えたり、何かに気を取られると振り出しに戻ってしまうような。

合宿から日常に戻り、日に日にお寺さんはすごい場所だったなあ…と感じます。

考えが言葉にまとまらずにぼぉっとなっている時もあれば相変わらず思考はグルグル空転していて、ときどきそれに気づいて笑ってしまうのですが、合宿前のような「ああだったらどうしよう、こうなったらどうしよう…」という不安が少なく鳩尾の下がほくほくしていたり胸のあたりがホワホワしていたり、自分の思考に鳩尾辺りがぎゅーっとなっても不安に駆られず あれ? 平気だ何だこれとびっくりしたり。

面白いなあ身体!と思ってそれを眺めています。

参加させていただき ありがとうございました。

また参加させていただきたいです。

(追記)

静岡から帰ってきてから、それまで日常的に続いていた幻覚、幻聴がほぼ無くなり、ほっとしたり、本当に私は色んな人の影響を受けていたんだなあとわかって なんだか嬉しくなりました。

毎日サンカルパヨガ瞑想を続けている中で

「あのね、胸は内側から開くんだよ」と聴こえ

「はい」と応え、また1週間くらいして「無理にこじ開けようとしなくていいから胸に居なさい」と聴こえて頷きました。

それからまた間を置いて「ダラニ」とだけ聴こえて、…なに??と思い、調べてみましたが難しく、スワミジ師に聞いてみたところ集中という意味だよ、通常の意味ではなくてね。 とのことでした。

先日は「「自分なんて」と思うことはやめない」と聴こえました。

何かが聴こえたとき確かに体験しているのに、それが去ってしまうと途端に不確かになり、日常に戻る中でだんだん夢のような、本当に自分の体験は体験なのかな、都合のいいこと捏造していたりしないかな…と疑い始め揺れていました。

スワミジ師とお話させていただいて、夢とか妄想とかじゃないんだと、自分の体験を信じていいんだと思い直せました。

ありがとうございました。
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スワミジ師からの返信

2019/11/16

「毎日サンカルパヨガ瞑想を続けている中で 「あのね、胸は内側から開くんだよ」と聴こえ 「はい」と応え、 また1週間くらい?して 「無理にこじ開けようとしなくていいから胸に居なさい」と聴こえて頷きました。」

この声はハートの声ですね。 こういう声が聞こえてくるときはハートに従っていいのですよ。 知ったかぶりで余計なことを言う方も居ますが、外野の言うことは気にしないで、自分のハートの声を信頼してください。

 「それからまた間を置いて「ダラニ」とだけ聴こえて …なに??と思い、調べてみましたが難しく スワミジ師に聞いてみたところ集中という意味だよ、 通常の意味ではなくてね。 とのことでした。」

凄いですね!ダラニと聞こえましたか! 

ダラニは梵語(サンスクリット語)です。 中国翻訳僧は陀羅尼と音写しました。

●梵語の発音について

ダラニはインドではダラーナと発音されることが多いようです。 これはどうやら梵語(サンスクリット語)とヒンディー語の発音の違いのようです。

後日知りましたが、梵語では英語のようにダラーナと発音するようです。私は梵語の専門家ではないので知りませんでした。インド人でも梵語を正確に学んでいる人は少数です。

ババジ猊下のお弟子さんたちは、アーサナをアッサンと発音していました。ディアーナはディハン、プラーナはプランと発音していました。

ババジ猊下の弟子で、ヨグマタジの次に公開サマーディーを成就したシュリマタジはこう説明しました。 

「英語のSUN やMOONのようにNで終わる単語を、サンナーとか、ムーンナーとか発音することがある。その影響ではないか」 

因みにシュリマタジは、インド系オーストラリア人なので、英語とヒンディー語はペラペラでした。

現在は、インドでも梵語を英語訛りで発音することが多くなっているようですが、ババジの弟子や信者さん達にディアーナとかアーサナとか言っても通じませんでした。ディハン、アッサンと言い直して、やっと通じた経験があります。 

●梵語のダンナ=檀那

ついでにもう一つ豆知識。 日本語で檀那という言葉がありますね。日本の近代仏教学の大家の学者は 「ダンナは本場インドではダーナと発音される」とある有名な本で説明していました。

しかし、北インドではダンと発音していました。南インドではダンナと日本語と同じ発音でした。ダーナと発音するのは英語訛りだと思っていましたが、梵語の発音かもしれません。 

因みにインド語も日本語もイタリア語も発音は似ています。 いわゆるローマンスタイルの発音です。イタリアローマのスタイルです。ローマ字です。

日本語の50音はインドの梵語の簡易系です。 

50音はキャキュキョ、ピャピュピョ、シャシュショまで梵語から借用していますから驚きです。

インドヨーロッパ語と言うように、インド語とヨーロッパの言語には共通性があります。 そして、イタリアとインドの発音はとても似ています。

かねがね、私は不思議に思っていました。何故明治時代の日本人は50音を英語ではなくイタリアのローマ字にしたのかと。 

それは単純なことで、インドと日本とイタリアの発音が似ているからなのかもしれませんね。 例えば、桜(SAKURA)と言う単語をインド人とイタリア人は、ほぼ日本語風に正確に発音します。しかし、アメリカ人はセクーラみたいに発音します。

さて、普通の人は旦那さん(檀那さん)と聞くと、 夫という意味に理解します。 ところがお寺で檀那というと少し意味が違います。

檀那寺とか檀家とかいう言葉を聞いたことがあるでしょう?実は、ダンナという梵語を中国翻訳僧は、檀那という中国語に音写したのです。

ダンナはインドの言葉なので、音写しただけでは中国人には意味が分かりません。それで中国翻訳僧は檀那を「布施」という言葉に翻訳しました。

日本で檀那という言葉が夫と言う意味で使われた理由はもうお判りでしょう? 家父長制社会では男が外で働いていたからです。 旦那さんは「家族にお布施する人」という意味で使われたのですね。今は夫が「主夫」をしているケースも増えています。 その場合、ワイフが檀那さんと呼ばれるべきですね。

ダンナ、或いはダンは、インド・ヨーロッパ祖語のdonum(贈る)を起源とする梵語です。この言葉は西洋に伝わり、英語にも取り込まれ、donation(ドネーション)、donor(ドナー)に変化しました。 

●日本の仏教学の伝統

日本の仏教学者はフリードリッヒ・マックス・ミュラーというドイツ人のインド学者に近代仏教学を習っています。明治時代に活躍した仏教学者の南條文雄は、オックスフォード大学で彼に師事しました。

インド人に仏教を習ったのではないから、当然近代仏教学には噴飯ものの間違いがたくさんあります。何故インド人ではないミュラーに仏教学を習ったのかと言うと、西洋的近代学としての仏教学はミュラー以前は存在しなかったからです。 

日本の仏教学者が日本の仏教学にたくさん間違いがあることを気づき始めたのは比較的最近のことです。 日本の大学生がインドのデリー大学やプーナ大学の大学院に仏教を学びに行くようになってからです。それは私が大学院生の頃です。つまりまだ半世紀もたっていないのです。 

●ダラニ(ダラーナ)とその一歩手前のプラティアハーラ(制感)の定義

さて、豆知識はここまでにします。

陀羅尼の解釈は仏教各派によって差異があります。なので、本家本元のアシュタンガヨガの定義で説明します。

私がヨグマタジ(相川圭子師)にお会いした時、アシュタンガヨガをこう説明してくださいました。

「アシュタンガヨガの中で、本当にヨガと言えるのはサンヤマ(綜制)です。 サンヤマとは同一の対象について、 集中(ダラーナ)、 瞑想(ディアーナ)、 三昧(サマーディー)をなすことです。 それ以前の段階はまだヨガとは言えません」

ヨグマタジはそう仰った後に、ダラーナの一歩手前のプラティアハーラ(制感)を説明されました。

「 “心頭滅却すれば火もまた涼し” と言うでしょう。あれがプラティアハーラのステージです」

 私はその説明を伺った時、心底驚きました。日本人で「心頭滅却すれば火もまた涼し」という格言を聞いたことがある人は少なくないでしょう。 

これは織田信長の焼き討ちによって焼死した快川和尚の辞世の句として有名です。快川和尚は武田信玄に仕えていました。

武田氏が織田信長によって滅ぼされると、快川は信長に敵対していた武将らを寺にかくまいます。このため快川の寺は信長の軍勢に攻め込まれ、焼き討ちされてしまいます。

燃えさかる火の中、快川は座禅をくみ、「ほんとうの座禅というのはこうやるのだ。心頭滅却すれば火もまた涼しい」と、唐の詩人・杜荀鶴(とじゅんかく)の漢詩を朗々とうたいあげたといいます。 

日本人で悟った僧侶といえば、一休さんや快川 和尚をイメージする人は少なくないでしょう。

燃え盛る火の中で、火傷の激痛をものとせず泰然と死にゆく姿は感動的です。しかし、それでもヨガにおいては第五ステージのプラティアハーラに過ぎないとヨグマタジは仰るのです。 

私でなくても日本人なら誰でも驚くはずです。 プラティアハーラ(制感)とは、その名のとおり、感覚を制御することです。 熱した炭の上を歩いたりする行は、プラティアハーラの一つです。

こうした荒行は世界中に存在します。日本各地にも火渡りの行は存在します。インドには100度の熱湯の中に入る荒行をするヨギもいます。

こうした物凄い修行を終えてもまだサンヤマではないと言うのです。それはまだヨガとは言えないと言うのです。 

このお言葉を伺った時は驚きましたが、少し考えてみれば、荒行をする方たちが覚醒しているかと言えばそれは確かに疑問です。 

アシュタンガヨガは、ヤマ→ニヤマから段階を追ってサマーディーに到達するものです。でも、プラティアハーラの段階を超えなくては、ダラーナに至れないとするならば、この時点で私などは脱落します。無理です。

さて、プラティアハーラの一つ上がダラーナ(集中)です。 プラティアハーラを超えてのダラーナですから、我々が通常イメージする集中とは全く別の何かです。

日本の禅宗のイメージする悟りを遥かに超えた意味での集中です。従って、そのダラーナを超えたステージの瞑想とは、普通我々がイメージする瞑想ではありません。それは「する瞑想」ではなく、「起こる瞑想」ですが、同じ起こる瞑想でもサマーディー直前に起こる瞑想です。レベルが違います。 

ババジ猊下は私にこう仰いました。

「一生に一度瞑想が起こればラッキーだ。 アシュタンガヨガでいう瞑想とは、普通考えられている瞑想とは全く違う。それは神からの恩寵だ」 

それは確かです。中国人や日本人の禅僧がイメージした「悟り」とは、サマーディーやニルバーナ(涅槃)ではありません。素晴らしい境地ですが、サマーディーやニルバーナと言われるステージのずっと手前にあるステージです。

その悟りを遥かに超えたステージが、アシュタンガヨガで言うところの瞑想です。

私はインドでも日本でも、アシュタンガヨガを習っている人に多く出会いました。しかし、このことを本当の意味で知っている人にはお会いしていません。彼らはサマーディーを成就していないからです。

決して、その人たちのレベルが低いわけではありません。ババジ猊下やヒマラヤのアヴァター様達のレベルが凄すぎるのです。こんな素晴らしいシッダマスターに出会えた幸運に、私は心の底から感謝しています。 

●ババジ猊下が考案してくださったサンカルパヨガ

ババジ猊下は修行時代、マイナス50度の世界で、裸で千日回峰行を何回も成就されています。しかもほぼ断食しながらです。

標高 8000メートルの高地から4000メートルまで下がると高山植物が生えているので、空腹になるとそこまで降りて、高山植物を生で食していたと仰っていました。

猊下は、すべてのヒマラヤに登頂されたそうです。ヒマラヤ最高峰のエベレストは8849メートルあります。そこまで酸素ボンベも食料も何も持たず、断食しながら裸で踏破しなくては覚醒できないとするなら、99.99%の人はサマーディーを成就できないでしょう。 

ババジ猊下以外の方でそれを成し遂げた人は、寡聞にして存じあげません。

しかし、安心してください。ババジ猊下は我々凡人でもサマーディーを成就できる秘法、即ち、サンカルパヨガを考案してくださいました。

実際、ババジ猊下が公開サマーディーに導かれた、チェトナマタジやシュラッダマタジ、或いはマンガルギリジも猊下がされたような難行苦行はされていません。そして、この私もしていません。

私は生まれて初めてサンカルパヨガをした時、15分くらいで宇宙の根源を観ている純粋観照者に還りました。プルシャが見た宇宙は小さく見えました。そして白黒でした。これ以上は言えません。それは必要があって極秘にされています。

パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリが『あるヨギの自叙伝』に書いた宇宙意識体験も、大半は脚色されています。でもサマーディーを体験した人が見れば、本当に体験しているとわかる脚色をしています。ヨガナンダ・ギリは本物です。

貴方がサマーディーを成就した時に、お互い確かめ合いましょう。

我々は本来、プラクリティー(自然・自性)と言うマーヤ(幻想)の世界から独立したプルシャなのです。真我独尊ではないけれど、私はプラクリティーから離れた純粋観照者で在りました。例えババジ猊下が否定しようが、この事実は曲げられません。

それが私に起こったのは、私が瞑想を始めて三か月目のことでした。それまで私はアシュタンガヨガもクリヤヨガも習ったことなどありませんでした。アシュタンガヨガという名称を教えてくださったのは「12000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラ・ギリ・ババジ(通称マハ・アバターラババ)です。

それまでヨガと言えば、体操ヨガに過ぎないハタヨガを我流でやった事しかありませんでした。つまり、私はヨガについては全くの素人でした。その私にサマーディーが起こったのです。と言うことは、飛び級でサマーディーに到達する方法があると言うことです。それがサンカルパヨガです。

しかし、サンカルパヨガのテクニックを習得するだけではサマーディーを成就することはできません。 覚醒を求める心、即ち発菩提心(ほつぼだいしん)が無ければ無理です。

そして、ヒマラヤのアヴァター様達、ババジ猊下やヨグマタジ等の覚者様と魂で繋がることなしには成就できません。

●静岡リトリートで起きた分かりやすい奇跡

今回、道場で「オレンジ色の服を着た存在」を感じた人が参加者33人の内の13人もいたことは大きな意味があります。

SZさんのように、料理係を担当してくださり瞑想をする時間が無かった人もいました。私はSZさんを瞑想に誘いました。彼女は、ほんの一時間瞑想しただけで、オレンジ色の服を着た存在に出会いました。 

このように霊的存在の実在を確信した人たちが多かったことは素晴らしいことです。 ヒマラヤのアヴァター様達が、我々のご加護をしてくださっている事を証明してくださいました。

皆さんのマインドとして、ヒマラヤのアヴァター様達の存在を受け入れることに抵抗する人はいないでしょう。しかし、オレンジ色の服を着た存在を感じた人の中には、 私の存在を感じてくれた方もいます。

相手が猊下ではなく私だと、マインドの抵抗が大きいはずです。 私はそれを良く知っています。だから私はババジ猊下やヨグマタジ、そしてアヴァター様達を前面に出しているのです。

それでも、これまで、私を感じてくれた人たちには神秘体験がたくさん起こりました。

ババジ猊下やアヴァター様ならエゴの抵抗が少なくて済みますが、私という見るからに凡人を認められる人は、普通の人よりアクセプタンスが大きいはずです。

だから神秘体験が起こりやすいのだと私は理解しています。

また、S様は腸閉塞で死にかけたのに助けて頂きました。

道場様は台風の直撃を受けたのに、いつもは起こる停電も断水もなく、リトリートが終わった途端に断水したそうです。でもそのおかげで、年間数万リットルの漏水が発覚しました。

このように分かりやすい奇跡が立て続けに起こりました。

奇跡を疑い、感謝の気持ちを忘れる人は、救済の網から堕ちていくかもしれません。果てしない闇の世界に堕ちてしまうかもしれません。だから、気を抜かずに瞑想を続けてください。

●ババジ猊下の認可無しにクリヤヨガを教えてはならない

ババジ猊下が忠告していますが、サンカルパヨガのテクニックだけを盗んでも、サマーディーを達成することはできません。未熟なものが未熟なものに教えることで、むしろ害悪をなすことが多いのです。

猊下が仰るように、クリヤヨガを誤用すると精神に異常をきたしたり、 時には命を落とすこともあります。 

猊下は「私が許可したもの以外はクリヤヨガを教えてはならない」と厳命されています。ですので、サンカルパヨガ瞑想はご自分の覚醒の為にのみ実践してください。 

ビジネスにしてはなりません。 テクニックだけ盗んでビジネスに利用している人は、覚者の厳命に背く大悪業を作っています。とても悪いカルマを作っています。 そしていずれ因果は応報します。

ババジ猊下の厳命を破っている人は、私の知る限り今まで全員自滅しました。当時、教えて良いと言われたのは、猊下とヨグマタジ以外は不肖この私だけでした。つまり、猊下の【マハヨギ・ファンデーション】、ヨグマタジの【ヨグマタ・ファンデーション】、私の【サンカルパヨガ・ファンデーション】というファンデーションの代表者だけでした。

●ファンデーション代表者への推挙

2003年当時、ババジ猊下とヨグマタジしか名乗ることが出来なかったファンデーションの代表者になるよう猊下に言われました。

それは、インドのデワースで行われた猊下の公開エアタイト・サマーディーの直後のことでした。

猊下のドキュメント映画『サマーディー』にも、エアタイト・サマーディーの様子が撮影されています。私と私の信者も一瞬だけ写っていましたので、皆さんもあのシーンは憶えていますよね。その時、私の信者の前で、サンカルパヨガ・ファンデーションを立ち上げるように仰いました。

●マントラディクシャ

ババジ猊下はマントラディクシャについてこう仰いました。

「マントラディクシャはすべての人に与えるディクシャだ。私はマントラディクシャを授けることを拒否したことは一度も無い」

2003年から2006年までの4年間、ババジ猊下は、我々サンカルパヨガ・ファンデーションをランニングさせるために「ヨガ&サマーディーリトリート」を開催してくださいました。1年間に10日間のリトリートが4年間ありました。

参加者は、初心者のディクシャであるマントラディクシャを頂きました。有難いことに私は最初から最終ステージのサンニャシンにしていただきました。

第一次「ヨガ&サマーディーリトリート」の参加者で、マントラディクシャ以上のディクシャを受けたのは私の弟子の一人だけでした。他の方はマントラディクシャしか認められませんでした。

従って彼らは初心者用の技法しか教えてはならないことになっています。ところが、ババジ猊下の恩を仇で返した何人かの人々が「ババジの直弟子」と名乗り、教えてはいけない秘儀を教えました。勿論形だけですが。

猊下を裏切り、恩を仇で返した人々の所業は語るのも胸が悪くなるようなことです。だから私はこれ以上何も申しません。

皆様はババジ猊下の厳命を心に沁み込ませて、「インド2000万聖者の最高峰」「現代の仏陀」と称賛される猊下に仇なす悪業は作らないよう、衷心よりお願いいたします。

サンカルパヨガ瞑想はあくまでご自分の為にプラクティスしてくださいね。 

喜びもあれば、法難にも会い続けていますが、過去世からのお弟子さん、修行仲間と再会できて私は幸せです。 

Om Shanti Shanti Shanti Om(愛と平和を)

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