初めて公の場で宣言したサマーディー成就(後編)

2018年12月17日

覚者が覚醒を宣言するのは、エゴの表明ではありません。

マハヨギ・パイロットババジ猊下やヨグマタジ(相川桂子師)、太母(たも)様のような覚者が覚醒を宣言するのは、皆様に目覚めて欲しいと願うからです。

この地球の資源を自分たちの欲望の為に収奪して、環境を破壊して滅び行く者たちに、ガイアを大切にして欲しい、目覚めて欲しいと願っていることと同じような願いなのです。

「ガイアを護りましょうよ」と言ったら、環境破壊推進者は「貴方達は皆聖人で、意識高い系ですね。我々は貴方より劣っているのですか?何か上から下ではありませんか!」などと反論します。

そんな風に切り返されても、ちょっと困ります。全く論点が違います。論理のすり替えが甚だしいのです。

我々は「環境を大事にしましょう!」と言っているだけで、「我々が意識高い系で、貴方達の意識は低いのです」などと言ってはいません。

そう捉えるのはごまかしです。そしてそのような主張をする方が「論点が違います。噛み合いません」というのですから、誠実な会話になりません。

私は皆様をリスペクトしています。だから、誠実に正直にお話しさせて頂いています。エゴを表明するだけでは、正直であっても誠実ではありません。他者に対する批判は必ずご自分に返っていくものです。それをアクセプトできるかどうかで、人間の真価が決まるのではないでしょうか?

話は変わります。ある時、インドのデリーで私は小さな靴店のオーナーにこう尋ねました。「貴方はシヴァ神を信仰しているけど、どうしてシヴァ神なのですか?」

彼の答えはふるっていました。

「ブラフマン(梵天)はこの世界を創っただけだ。この世界は醜い。ビシュヌ神はこの醜い世界を維持しているだけだ。シヴァ神はこの醜い世界を壊して、新しい世界を創造する神だ。だから私はシヴァ神を信仰しているのだ」

私は彼の言葉を聞いて、思わず爆笑しました。

ユダヤ・キリスト教世界では、創造神は絶対的な神です。キリストをこの世界に遣わしたヤーベは、主なる神として尊敬されています。それを「この醜い世界を創造しただけだ」というのですから、私は大ウケしました。

私は、この生をよりよく生きる道ではなく、この三次元世界を離れる道を歩んでいたので、靴屋さんの意見に共感しました。

ところが、この理解にも落とし穴がありました。

私はババジ猊下に「レイプ、暴力、殺人、戦争などが蔓延するこの醜い世界を離れたい。サマーディーの世界に還りたいのです」と訴えたことがありました。

猊下は珍しく、怒りの表情をお見せになりました。怒りを私に見せてくださったのです。こういう状況の中で「猊下は弟子に怒っている。弟子をリスペクトしていない」等とジャッジする人は弟子にはなれません。猊下が怒りの表情をお見せになることで、何かを見せようとしてくださったのだと、受け取るのが正解です。

猊下は私を諭しました。

「醜いのは人間のマインドだ!この自然を見なさい!総てが美しい。二度とこの世界が醜いなどと言うな!」

私は衝撃を受けました。端的な猊下のご指摘に頭をたれました。

猊下は時々、公衆の門前で弟子に対して激怒されることがあります。でも猊下の弟子はその怒りが慈悲の心から来ているのを知っています。誰も猊下をジャッジしません。

あまり事情をご存じない方は、このような様子を見て「覚者とあろうものが、怒りを見せるなんて人間が出来ていない」などとジャッジして、猊下が一切衆生の救済の為にすべてを擲(なげう)って努力されて来たことを、たったそれだけのことで総て否定する方もいます。猊下が達成している高次元の意識と、三次元でのふるまいのギャップに戸惑って、ジャッジします。

三次元世界では覚者も普通の人間です。当たり前のことでは無いですか?というのもビデオゲームの世界に戻っているのですから、そのキャラになるのです。どんなキャラを使うかは人によって異なります。

覚醒の世界の光明を三次元に持ち帰ることは可能です。

そのエナジーを三次元世界に還元することを主要に思う方は、どちらかと言うとビシュヌ派的な道を好みます。この生を楽しもうとします。それは素敵です。そのことに問題はありません。それはそれで美しいのです。

シヴァ派のサドゥー(遊行者)は、そのエナジーを自己のサマーディー成就に向けて使います。どちらも間違ってはいません。

私は仏教僧の時代も、シヴァ派のサドゥー時代も、生死を超える道を選んでいます。

私は「覚者のみぞ覚者を知る。覚者以外の者に覚者は判断できない」、「覚者に対する徹底的な帰依と自立」という原則を仏教僧時代、猊下の弟子時代に徹底的に教えられたので、猊下をジャッジすることはありませんでした。自分の無意識の反発に巻き込まれることは殆どありませんでした。

ヨグマタジが「私は、私のカルマ(業)によってサマーディーを成就しました」と書いたことに抵抗した方がいます。ヨグマタジの謂いをエゴの表明として誤解しているのです。

そうではありません。ヨグマタジはエゴの抵抗をなるべく起こさせないように、謙虚に書かれています。本当なら「私は、私の良きカルマによって今生サマーディーを成就しました」と書くべきなのですが、皆様の抵抗を予測して“良き”の部分を外しています。

カルマには善業と悪業があります。

日本で業というと「業が深い」等と悪業のイメージがありますが、そうではありません。カルマを英語に訳すとAn actionです。行為です。

私は、ババジ猊下やアヴァター(神の化身・権現)様のお陰で、今もこうして生かされています。本当に有り難いことです。

18年前に死んでいるはずの私がこうして生かされていることは、私がこの生の最後に一切衆生の救済のためのワークのお手伝いをするためだと実感しています。

何度も申しあげて恐縮ですが、私は1999年から2000年に「240日不眠断食座禅」で死にかけました。腎経、肝経など総ての臓器はほぼ機能せず、腎脈はゼロでした。腎脈は生命エネルギーを示しますので、生命エネルギーがゼロだったのです。

私の脈を診たある鍼灸師は驚いてこう言いました。「私の体験では、腎脈がゼロの状態の方は、大体3ヶ月後には亡くなる。動けなくなり、意識も朦朧としている。それなのに、ギリジはピンピンしていて、普通に働いているのが信じられません!」

私は猊下や、アヴァター様のシッディーパワーのお陰で生かされていることを知っています。沖縄の高名なユタ(シャーマン)の玉城さんは私を見た時、「何も仰らないでください。貴方の周りには無数の光体が凄い勢いで回っています。この光はヒマラヤから来ています」と霊視しました。私はアヴァター様達が私をいつも守護してくださっているのを知り、嬉しくなりました。有り難さで胸がいっぱいになりました。

猊下はこの世界を離れようとする私を引きとめました。私は瞑想中にこの世界を離れるのなら自殺にならないという教えをそれまで信じていました。

ところが、猊下は私にこう仰いました。

「貴方はこの世界を離れようとしている。それで食事もせず、眠りもせず、24時間座禅している。このままでは貴方は確実に3ヶ月後に死ぬ。それは自殺と一緒なのだ。自殺すればどのような世界に堕ちていくのか、貴方は知らない!それに、覚醒した者はこの世界の人々に奉仕する義務がある」

私は猊下のお話を伺い愕然としました。猊下はおもむろに仰いました。

「貴方はサマーディーを成就した。今度はそれを人々にシェアしなさい」

そのお言葉が光の奔流となり、サハスラーラから入り、第1チャクラまで降下して、今度は第1チャクラからサハスラーラまで上昇した瞬間、頑なに断食瞑想の中止を拒んだ心が消え去りました。

私は「はい!悟りました。ババジ!」とお答えしました。

そして続けて言いました。

「でも私はご覧のように、240日間座り続けていたので、立てません。歩けません。どうやって日本に帰ればいいのですか?」

猊下は「心配するな!私が治す」とお答えになりました。

信じられないことに、私は3日後には歩けるようになりました。猊下は私にこう仰いました。

「これは一時的な処置だ。貴方は○○も悪いが、○○はもっと悪い。日本に帰国したら直ぐに一流の医師の手術を受けなさい。そうしなければ、一生半身不随になるよ!」

猊下の予言どおり、私は日本で半身不随になりました。○○のMRIを見た医師は「手術をしてもこの状態なら、一生半身不随になるでしょう。でも激痛はなくなります」と宣言しました。しかし、私は猊下のシッディーパワーを何度も見てきたので、必ず歩けるようになると知っていました。

そして3ヶ月後、歩けるようになった私を見て、医師はこう叫びました。「これは奇跡です!これだけ○○が損傷しているのに歩けるようになった例を私は知りません。学会に発表します!」

熊野瞑想会に参加された医師の方に手術前のMRIと、1ヶ月前のMRIの画像をお見せしたところ、皆様の前でこう仰いました。

「この状態で歩けているのは奇跡です。私が受け持っている患者さんがいます。損傷の状態はギリ様より軽いのですが、半身不随で車椅子の生活です。これだけ、○○損傷していて、歩いているのは奇跡です!」

私はババジ猊下の広大な慈悲とシッディーパワーに畏敬の念をもっています。私を助け続けてくださり、大いに感謝しています。だから私は、ずっと猊下とヨグマタジが主導する「ワールドピース・キャンペーン」のお手伝いをしたいと願っていました。

訳あって、今までアンダーグラウンドで活動してきましたが、やっとその時がやってきました。私は熊野瞑想会で、サマーディー成就を初めて皆様に告白しました。29年間秘密にしてきたことを、初めて告白しました。

一般的に覚者が覚醒を宣言すると反発する人がいます。覚者の宣言をエゴの表明としか捉えられない人が多いのです。歴史的に認められた覚者に対してはリスペクトしても、新しく出現した覚者には疑いの眼を向けます。そしてジャッジします。その気持は解ります。

しかし、覚者はエゴを満足させたいから覚醒を宣言しているのではありません。深い瞑想を知っている人は、そんなつまらないエゴの為に世間に出る気などにはならないのです。

内側の美しく、高邁で至福の世界に在る存在が、五濁悪世の汚れた世界になど帰りたくはないのです。それをご存知無い方が、釈尊(お釈迦様)、キリスト、ヨグマタジ、太母様などの覚者に対し、「自己宣伝したいのだ。エゴの表明だ」等と下衆の勘繰りをします。

覚者の話を聞いて、自慢話を聞かされている気になる人もいます。自分がそうだからといって、覚者がエゴで覚醒を表明していると考えるのは間違いです。

己をもって人を量ってはなりません。特に、覚者にそれをすると貴方は大切なものを取り逃がします。

覚者の話を2回聞いただけで、又同じ話をしている、自慢話にしか聞こえないと仰った方は今まで腐るほどいます。

どんな覚者でも、毎回似たような事を言います。「瞑想して覚醒しなさい」、或いは「祈りなさい。そして覚醒しなさい」ということです。同じことの繰り返しと言えば、繰り返しです。

純粋な魂を持った者は、覚者のお話を毎回新鮮に聞くことができます。

例えば、子供が同じ花を毎日見ても、瞬間、瞬間に生きているので毎瞬、毎瞬、新しい世界にたゆたえます。エンジョイできるのです。今、ここに在るからです。

今ここに在れない方は、覚者の話を聞いても自慢話にしか聞こえません。それはその方の問題です。

私はババジ猊下やヨグマタジや太母様のお話を聞いて、又、同じことを言っている、自慢話をしていると思ったことは一度もありません。

この29年間、私が何十人もの人から数百回も聞かされた反論があります。最近、お二人の方が同じ疑問を私に投げかけました。その方達は、私を心配して言ってくださっていると信じています。私はその方々の、エンプティースペースを信じています。お二人の方に反論するのではなく、理解して頂きたいので説明いたします。

29年間聞かされてきたことは、

1.覚者の光は自然に伝わるものだ。だから覚醒を宣言する必要がない

2.過去世がどうの神秘体験がどうのと、終わったことを自慢する必要がない

3.覚者は短い言葉で、スパッ!と語る。長々とした文章は要らない

他にも似たような疑問、反論がたくさんありますが、とりあえずこの3点にお答えします。

「1.覚者の光は皆さんに届いているから覚醒を宣言する必要はない」との主張は、そのとおりです。覚者の光は全宇宙に放射されています。解脱の光輪は際も無しなのです。

それならば、何故ババジ猊下や、ヨグマタジ、釈尊や、マハビーラ、シャンカール、キリスト等錚々(そうそう)たる覚者はサマーディー、モクシャ(解脱)、ニルバーナの成就を宣言したのでしょう?

貴方達の主張が正しければ、覚者様達の主張は間違っています。覚者様達の主張が正しければ、貴方達が間違っています。

今回、熊野瞑想会で、この疑問を贈られた方は、私に愛を持って答えてくれました。だから、私はその方達に愛を持って応えています。お一人の方は、自分の内側を見ますと言ってくださっているので、私はその方の光に祈っています。

ところが、同じ言葉でも違う人間が言う時は事情が違います。怒りと敵意をもって投げつける人もたくさんいました。私にはご縁のない方達です。

正直に申します。貴方が覚者の光を感じられるとしたなら、貴方は相当に霊性が高い方です。覚者を覚者として覚知出来るのは覚者だけだと古来より言われています。私が勝手に言っているのではないのです。

「覚者とそうで無い方の差は何ですか?」と詰め寄るかたがいますが、簡単です。

我々は確かに光で出来ています。ビデオゲームの世界が電子的なもので出来ているのと同じです。覚者はビデオゲームの世界の夢から目覚めた者です。非覚醒者は夢から目覚めていない者です。

そしてババジ猊下やヨグマタジ、ブッダ、シャンカール、太母様のような覚者は、未だ目覚めぬ者に対して目覚めて欲しいと願っている大慈悲なのです。

覚者は「我々は覚者で貴方より優れている。貴方は劣っている」等と言ってはいません。どうか貴方も目覚めてほしい。どうぞ貴方も救われて欲しいと言っているのです。私にメッセージをくださった方は、高い霊性を持っていらっしゃると感じます。

しかし、現実的に私のサマーディー成就を見抜かれた方はごく少数です。猊下や、ヨグマタジ、「12000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラババやアバターラ・ギリ・ババジ、太母様などごく少数です。

他にもサイキックな人々が私のエンライトメントを認めて来ました。しかし彼らは優秀なサイキックではありましたが、覚者ではありません。

私はサイキックの方、例えばプーナのOshoコミューンにいたサイキックの皆様に、私は感謝しています。あるセラピストは私のチャクラをリーディングして「貴方の総てのチャクラがエンライトしています」と言いました。「総てのオーラが黄金です」とリーディングした方も居ました。

「総てのチャクラがエンプティーです。即ち、総てのチャクラがエンライトしています」とリーディングした方は、私をある瞑想グループのアシスタントに招聘しました。

「Oshoがボディーを離れたので、Oshoの代わりとして参加してください」と言われ、彼女がグループリーダーを務める瞑想グループに私をアシスタントとして招聘しました。

アシスタントなのに、HEMA様という日本人女性を通訳につけてくれる許可をいただきました。彼女が太母様にお会いした時に私の名前を言ったところ、「あの人は私のソウルメイトなの」と太母様がお答えしたと私に教えてくれた女性です。

私が「それは何かを聞き間違えたのじゃないの?」と答えると、「聞き間違えるわけが無いわ!だって80歳のおばあさんがソウルメイトなんて言葉を使ったのよ!聞き間違える訳が無いじゃないの!」と答えました。

その後、私は日本に帰国して太母様に再会しました。太母様は私に直接、「あんたさんは私のソウルメイトなのよ」と仰ってくださいました。

私はOshoコミューンで二人しか貰えない特権を得ました。総てのコースやグループにアシスタントやヘルパーとして無料で参加できる特権です。Oshoの図書室に自由に出入りして、書籍を閲覧できる特権などです。私はプーナで秘密裏に創設されたエソテリックグループ(秘教グループ)の最初のメンバーに選ばれました。

しかし、サイキックの方達は、覚醒していません。従って、私は彼らの判断を私のサマーディー成就の根拠にはしていません。まったくしていません。

私は、私自身の覚醒を基準にしています。この点は太母様も同じです。覚者は誰かの承認を必要としないのです。

私は幸いにも猊下や、ヨグマタジ、マハ・アバターラババ、アバターラ・ギリ・ババジにサマーディー成就を認めて頂きました。

こういう話を淡々と聞ける方は覚醒に近い方です。自慢話としてエゴが抵抗する方は、どうぞそのエゴを内観してください。私はまったく自慢などしていません。私は淡々と事実を語っています。総ての覚者は事実を淡々と話しています。

「3.覚者は短い言葉で、スパッ!と語る。長々とした文章は要らない」とのことですが、スパッ!と端的に話すこともあれば、長い経典になることもあります。両方の切り口が必要なのです。

例えば、太母様はスパッと切り込むこともあれば、『慧日』という長い文章の御本も書きました。講演会では何時間も延々と話されました。

覚者にスパッ!と切り込まれ感動した人は、長い話を拒否することがあります。そのようにジャッジしていては、何か大事なものを取り逃します。

ババジ猊下から【サンカルパヨガ・ファンデーション】の代表に推挙された当時、ファンデーションを名乗れたのは、猊下とヨグマタジだけでした。

猊下は「貴方のファンデーションは私にもヨグマタジにも属さない。貴方のファンデーションなのだから、貴方の好きなように運営しなさい」と言われました。

ババジ猊下を父として、ヨグマタジを母としてリスペクトしてきました。私としては背負いきれないほどの大役でした。胃が痛くなるようなプレッシャーでした。十字架を背負った印象でした。

紆余曲折した後、私は達磨大師のように少数の弟子しかとらない方針にしました。

猊下は私に、「スワミ」と「ヨギ」の名乗りを許されました。スワミとかヨギとか名乗れたのは、猊下のアシュラムでは猊下お一人だけでした。サイババアシュラムではサイババお一人でした。Facebookに投稿しているように、猊下は、私に「スワミ・ヨギ」と記した直筆のサインをくださっています。

覚醒した者は誰でも、誰かのリスペクトを求めていません。自分の解脱について語ると、エゴの証明だと直ぐ勘違いする人が多いのです。人に尊敬されたいから覚醒を宣言しているのだと勘違いします。自慢話をしているのだと、勘違いする人もいます。違います!まったく違います。

リスペクトは、リスペクトされる方よりリスペクトするほうの功徳が大きいのです。猊下や、ヨグマタジ、釈尊がリスペクトされたがっていると思いますか?リスペクトされる事によって誰かからエナジーを貰えると勘違いしていませんか?御ご自分がそうだからと言って、覚者がそうだと思うのは間違いです。

覚者はお弟子さんや信者さんの純粋なリスペクトを喜びます。純粋なリスペクトを持った人は覚醒に近いからです。覚者は他者の覚醒を願っています。

覚者はこの世界で他の覚者と出会うことを欲しています。この世界では、覚者は圧倒的な少数派だからです。独りの覚者がもう一人の覚者に出会う時、時代は急激に変容します。誰かが覚醒すると、必ず別の覚者と出会うとされています。

純粋な心で祈れる方は覚醒に近いのです。

反対に、覚者の話を自慢話にしか聞けない方は、どうかご自分のエゴをご覧になってください。

マインドが抵抗する時は、それを観察できるチャンスなのです。マインドを浄化できれば貴方は解脱に近づきます。それを求めれば解脱は近づくし、求めなければ、今回のアセンションでは、バクテリアからやり直さねばいけないかもしれません。それは貴方ご自身の選択です。

出来るなら覚醒を望んで欲しいです。

「2.過去世がどうの神秘体験がどうのと、終わったことを自慢する必要がない」と言われますが、ご心配なく!

私は神秘体験について一切執着しませんでした。だから、次から次へと神秘体験が起こり続けました。

過去にこだわっていることはありません。私は過去世の数名の僧侶名を既に知っていますが、過去の栄光には執着がありません。その方達は歴史的には有名な方で、私も尊敬していますが、その方が過去に到達できなかったステージを、私は今生達成いたしました。だから過去にこだわってはいません。私は今ここに生きています。

私に起こったことについてシェアしているのは、自慢したいからではありません。このようなことを書くことによって、たくさんの良きスピリチュアリストが集まってきています。それが望みです。熊野の皆様達のように、スパッ!と私を見抜いてくださる方たちが顕れています。

現在、人類は危険な状況です。二極化は極端になっています。私はアセンションにのっかるスレスレの人たちのお力になれれば良いと願っています。

女性には男性にはない母性があります。女性には男性にはない聖性があります。どんな男性も母性の前では凡人です。でもそれと同時に、男性の覚者には女性とは違う聖性があります。この世界は陰陽の原理に基づいています。

ババジ猊下は「マスターは解脱していて、なお且つ教え導く事ができる存在であること」と定義しました。その意味で私はマスターではありません。覚醒はしましたが、まだまだ先があります。意志の力でいつでもどこでもサマーディーを成就出来るサンカルパ・サマーディーヨギには程遠いのです。

釈尊もブッダガヤで覚醒した時は、それまで人類が到達できる最高の高みであるニルビチャール・サマーディーを成就しました。しかし、その時点では未だ、サンカルパ・サマーディーヨギではありませんでした。

釈尊はニルバーナ成就後も精進され、サンカルパ・サマーディーヨギになりました。ニルバーナ(涅槃)を超えたマハパリ・ニルバーナ(大般涅槃)を成就されました。

私はまだまだそこまで、到達していません。だから世間にでてマスター役をするのを避けてきました。自分がサンカルパ・サマーディーヨギになってからマスター役をしたかったのです。

覚醒しても世間に戻らず、ヒマラヤで内面の世界に還る覚者もたくさんいます。こうした覚者は覚者ではありますが、マスターではありません。彼らは世人を導くことより、より一層ご自身の高い次元を追求します。

最終ステージに到達したとき世間に戻り、衆生救済のワークをしようとお考えの方もいらっしゃいます。

大乗仏教では彼らを独覚といって非難します。「独り悟り独り去る」と言って非難しますが、私は間違いだと知っています。それは単にタイプの差なのです。

これはあくまで一般論ですが、女性の覚者は母性原理に基づいて、覚醒後直ぐに利他行に向かう傾向にあります。衆生救済に向かいます。太母様がその典型です。太母様は、ご自分の悲しみ、怒り、慈悲に変えて接します。貪りを他者に対する慈愛に変容します。一般の方にはとても有り難い存在です。

それに対し、男性の覚者は自利行を深め、より高みに至る道を選ぶ傾向があるように思えます。貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒、即ち貪(むさぼ)り、怒り、無知の三毒を慈悲に変容して衆生救済に向かうより、先ずは自らを高め、無心から究極のサマーディーに向かう傾向があります。

どちらにもそれぞれ良いところがあるので優劣をつける必要はありません。どちらの道も尊いのです。女性原理と男性原理はタイプが違うので、それぞれが調和すれば良いのです。

覚者といえどもこの世界ではマーヤの法則に支配されます。肉体は老い、病気にもなります。マインドはあるし、感情もあります。当たり前のことです。

この世界は夢のようなものです。バーチャルリアリティーのようなものです。ビデオゲームの世界のようなものです。ビデオゲームの世界では、それぞれのゲームのルールに則って世界は展開しています。ゲームの世界ではゲームのルールから逃れられません。

但し、覚者は覚醒した意識を持ち続けています。そこが、マーヤから抜け出せていない人々と違うところです。あなたもわたしも光で出来ているのは一緒だけれど、総ての人が覚醒しているわけではありません。

確かに覚者も非覚醒者も神で出来ています。だから、私は貴方で貴方は私です。

しかしそれだけで良いのなら、瞑想する必要もないし、修行する必要もありません。

覚者が目覚めを勧めるのは、貴方が目覚めていないという事実を言っているだけです。「目覚めた者が気高く、貴方は劣っている」と言っているのではありません。覚者は貴方に目覚めて欲しいと願っているだけのです。「願い」を持っているのです。

例えば、この地球の資源を自分たちの欲望の為に収奪して、環境を破壊して滅び行く者たちに、ガイアを大切にして欲しい。目覚めて欲しいと願っているのと一緒です。

ババジ猊下は仰いました。神もまたプラクリティーの産物だと。神もまたビデオゲームの産物です。プラクリティー、自然(じねん)が創った産物です。一切皆苦を悟った覚者だけが、ビデオゲームの世界から解脱できます。

この世界を楽しむのは良いことですが、それだけでは解脱できず、神々のように次の生で地獄に堕ちることもあります。

だから、釈尊は神を六道輪回の頂点として定義しても、六道という迷いのサークルから抜け出せていない存在だと主張したのです。

今生神でも、来世は地獄に堕ちることもある。

神は超能力があるので、1万年後には地獄に堕ちる事を知って、1万年間もの長い間、神の親族は嘆き悲しむという教えは有名です。仏教初心者でも知っています。知らなければもぐりです。

神々は生を満喫しています。幸福の極みにあります。愛する人と一緒に楽しんでいます。でも生に埋没すれば高くつきます。

神は覚醒していないので、次の生は畜生道かもしれなし、餓鬼道かもしれないのです。しかもサイキックですから、未来が地獄に堕ちる事を知ってしまいます。その能力があるだけ不幸が大きくなります。このことを理解した存在が、一切皆苦を悟るのです。

覚者はこのマーヤの世界での幸福は幻想であり、いずれ破れるものであることを知っているので、生というマーヤ、死と言うマーヤを超える道、即ち生死を超える道を選ぶのです。

この生を幸せに過ごすことは良い。何の問題もない。しかし、覚者はこの世界の無常を悟り、生死を超えた道を選びます。

それがサマーディーに至る道です。

生死を超える道です。

Om Shanti Shanti ! (愛と平和を!)

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