すべての覚者様達が願う世界平和

2022年6月28日

すべての覚者様達は「世界平和」「ガイア(母なる地球)の保護」「人類の覚醒」を願っています。

◎我が師、マハヨギ・パイロットババジ猊下

インド最大のサドゥー(遊行者)の団体である【ジュナ・アカラ】は、我が師マハヨギ・パイロットババジ猊下を「ヒマラヤの23人のアヴァター様達を統べる24番目のアヴァター様」として認めています。

23人のアヴァター様の中には「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラ・ギリ・ババジ(通称マハ・アバターラババ)、同じく「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるアバターラ・ギリ・ババジ、猊下の師で伝説のアヴァター様であるハリ・ババジ、そしてインド人気No.1の神であるクリシュナ神まで含まれているのですから驚きです。因みにハリ・ババジは23番目のアヴァター様です。

この話はパイロットババ猊下の著書『ヒマラヤへの扉』にも書かれています。以下引用します。

 「さらに、アヴァタール・ババとマハ・アヴァタール・ババがロード・クリシュナの時代に属す人々であることは、心に留めるべき重要な点である。そしてロメッシュ・リシは顔を除いて毛深い姿をしているが、彼は「前・ラーマヤナ」時代に属し、この地球の絶滅と復活を何回も目撃している」(中略)

 「このグループには23人のマハトマがおり、24番目は私に割り当てられている。特筆すべき重要なことは、これらの偉大なマハトマたちは肉体(グロス)で存在していることだ。」

猊下は「1万年以上生きているアヴァター様達がいて、普段は光体となって地球や生命体の霊的進化を担っている。肉体を氷河に保存しているが、必要な時は肉体を伴い世間に現れることもある」と仰っています。

こんな話は信じない方が大半でしょうが、インド最大の聖者の団体であるジュナ・アカラが認めている話なので、世界中で信じている人は多いのです。

私はマハ・アバターラババとアバターラ・ギリ・ババジにお会いしました。勿論、それはパイロットババ猊下とヒマラヤのアヴァター様方の御計らいによるものでした。

私はマハ・アバターラババから「12,000年秘密のアシュタンガヨガ」を、マハ・アバターラ・ギリ・ババジからは「12,000年秘密のクリヤヨガ」を教えて頂きました。猊下に両アヴァター様を紹介された時は流石に半信半疑でしたが、ある決定的な証拠を見て、私の疑いは氷解しました。

私が話しかけている人々は、このような話しに、良い意味で驚かない人々です。こんなことに疑いを持っているようでは、覚醒はおぼつきません。

インドでは「24」という数字は一つのサイクルを示し、24番目が総てを統一する存在としてリスペクトされています。その偉大なるマハトマであるパイロットババ猊下や、猊下の兄弟弟子であるヨグマタジ(相川圭子師)は、「真我独存」のステージに往き来できるサンカルパ・サマーディーヨギです。

猊下によれば『ヨーガ・スートラ』は優れた経典ですが、真実を総て明かすことはできないので5%はわざと脚色されているそうです。例えば光のステージが第2サマーディーとされていますが、それは脚色で、本当は第1サマーディーだそうです。

猊下から、所謂エンライトメントがサマーディーのスタートラインと知らされた時は、正直驚きました。サマーディーの最初のステージがエンライトメントのステージで、ニルビチャール・サマーディーは第4サマーディーです。公開サマーディーができる覚者は、第4サマーディーを達成した方だとも伺いました。つまりニルビチャール・サマーディーはビヨンド・ビヨンド・ビヨンド・エンライトメントと表現可能です。

「真我独存」は更にその上のステージです。そういう世界にサンカルパ(意思・決断)の力で自由自在に往き来できるステージの猊下とヒマラヤのアヴァター様方に比べれば、サマーディを成就しただけの私など足元にも及びません。

このような事を言うと、上下意識に縛られた方は「なんだ!光のステージは低いのか?」と言ってしまいそうです。

そうではありません!これは上下の問題ではありません。光のステージ以上は、みんな素晴らしい世界です。

光と永遠の浄土と言えば、浄土の代名詞である極楽浄土が思い出されます。阿弥陀仏の漢訳は「無量光如来」「無量寿如来」です。無量の光と、無量の寿、即ち永遠の時間を象徴する如来です。エンライトメントの世界は、まさに無量の光と無量の時間の世界です。

キリストは「神の国は光の国である」と答えています。こういう世界を下に見ようとする人の気がしれません。私は涅槃寂滅の世界も好きですが、光の世界も好きです。多くの人々のマインドが好むのは、涅槃寂滅の世界よりむしろ光の世界でしょう。

◎すべての覚者様達は世界平和を願う

パイロットババ猊下のような偉大な覚者様達の願いは一つです。それは「世界平和」「ガイア(母なる地球)の保護」「人類の覚醒」を願っています。

すべての覚者様達は、争いの無い平和な世界、愛とハーモニーに満ちた世界の実現を祈っています。環境を破壊し、ガイアを収奪し、痛め尽くしている状況では平和はやって来ません。

地球は「癌細胞化して地球を道連れに死のうとしている人類」をいつまでも放置できません。我々の身体に癌ができれば、身体を護るために癌細胞を殺さなくてはいけないのと同じです。

ですから地球は、大地震、大津波、超大型台風などの天災をもって人類に警告しています。地球の忍耐は、限界に近づいています。人類はそのことを知らねばなりません。

人類は目覚めなくてはなりません。覚醒しなくてはいけません。地球を大切にしなければ、人類は近い将来、癌として淘汰されるでしょう。パイロットババ猊下は「地球は今まで何度も絶滅している」と仰っています。このような事を再び繰り返してはいけません。

私は総ての覚者や、覚醒を求める同胞たちに協力するのは当然の事だと思っています。宗派を立てることの意義は認めていますが、この危機的状況の中では、宗派を立てるより宗派を超えて和合すべきだと考えています。

狭義の意味での宗派主義は、世俗的エゴに他なりません。我々人類は、宗派主義は勿論のこと、宗教を超えた道に進むべきです。

◎ヨガは宗教ではなく科学である

ヨガは科学です。自然科学とは土台の違う別の科学です。

最近の物理学、特にアインシュタインや、アインシュタインの宿敵(?)である量子力学以降の現代物理学は、だいぶヨガの科学に近づいてきています。しかし、まだまだです。

科学はブラックホールを発見しましたが、ホワイトホールを発見していません。サマーディー成就者は両方を知っています。ワームホールの描写も中途半端です。実際は、映画に出てくるようなものと少し違います。

四次元以上の次元論は数学的領域の問題になるそうですが、ヨガのパンチャ・コーシャ理論のパクリにも見えるブレーン宇宙論には興味を惹かれます。

私は物理学の徒ではないので詳しい解説はできませんが、サマーディー世界で見たものは理解しています。宇宙の物理法則は「拡大と縮小の原理」に縛られていますが、サマーディーは拡大と収縮を超えた世界です。

◎利他行に集中する方もいれば、より自己を高めんとする修行者もいる

私は組織を運営するには不向きな人間です。できるなら、ヒマラヤでずっとアローンネス(独り在ること)でいたかった人間です。

大乗仏教は、そうした修行者を「一人悟り一人去る」独覚として批判しました。覚醒したら、菩薩の段階でも利他行をすべきだと主張しました。かつて大乗仏教の教団に属していた私も、長い間そう思ってきました。

しかし、パイロットババ猊下にお会いして、その考えは間違いだと教わりました。覚醒しても、利他行に向かうことが不向きな方もいるのです。

衆生済度の利他行をする前に、自己のステージを極めるのが先と思う方もいます。自分を救えない人間に、他人は救えないと思うからです。

親鸞さんも『歎異抄』の中で、「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、 おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」と言っています。「先ずは、自分が仏陀になって、それから衆生を救うのが浄土の慈悲だ」というのです。すごく説得力がある意見です。

伝統的なヒマラヤの聖者は世間と断絶して難行苦行に励みます。孤高に在り、内なる世界に入定します。そして、自分のステージが至高に至った時に初めて地上に還ります。この時点で利他行に励みます。

アヴァター様達のように、普段は光体となって地球と一切衆生の霊的進化のために光を降り注いでいる存在も在ります。

ヒマラヤの修行者は中々世間に戻って来ることがないのです。猊下のようにヒマラヤから降りてきて衆生済度のワークをされる覚者は意外に少数だと聞きました。だから偉大な覚者をジャッジして、功徳を取り逃がさないようにしてください。

反対に大乗仏教では、観音菩薩や弥勒菩薩のように自分が菩薩の段階でも衆生済度のワークに取りかかる菩薩がたくさんいます。一般大衆からすれば、菩薩様達は実に有り難い存在です。

しかし猊下は、菩薩の段階で教えるより仏陀のステージになってから教えたほうが良いと仰いました。大乗仏教を学んだ者としては、眼から鱗の意見でした。考えてみれば確かにそのとおりです。仏教において、菩薩は仏陀に準ずる位です。輪廻転生を超えたとはいえ、未だ「完全な悟り」に至っていないステージです。

勿論、猊下が菩薩行自体を否定する筈はありません。また、仏陀より菩薩が低いなどと仰っている訳ではありません。これは上下の問題では無いのです。

観音菩薩や勢至菩薩を信仰する人が、この世界にはたくさんいます。観音菩薩の象徴は慈悲です。勢至菩薩の象徴は智慧です。観音菩薩と勢至菩薩の象徴である慈悲と智慧を併せ持った仏陀が阿弥陀如来です。

観音菩薩と勢至菩薩をプラスとマイナスのような不即不離の関係と見たほうが、本質を見誤りません。阿弥陀如来を信心する方は、観音菩薩と勢至菩薩を阿弥陀如来の両側面として尊敬しています。だから両菩薩を尊敬しています。

観音菩薩を信仰する人が阿弥陀如来に劣等感をもって、敵意を持つというような話はあまり聞きません。どちらが上とか下とかいう問題では無いのです。

あるいは、観音菩薩と勢至菩薩がライバル関係だという話も聞きません。信心ということを知らない人が無意識的に、上下意識で物事を捉えます。これは大変な間違いです。

菩薩より仏陀のステージが上だと聞けば、自分の信仰する菩薩が否定された気になって、仏陀を敵視するような感覚の人がいるとすれば、それは「自分のエゴが投影された愚かしい考えです」と教えてあげてください。

ところが、この例を自分の帰依しているマスターに置き換えると、途端に分からなくなるものです。

具体的な例を示します。パイロットババ猊下は多くの方々に尊敬されています。猊下に帰依する人の中には、世界的に有名なマスターもいます。

ある南インドに拠点を置くマスターが猊下に帰依しました。その方の高弟は「私の尊敬するマスターが帰依するのだから、当然私も猊下に帰依します」と、自然に猊下をリスペクトしました。

ところが、エゴの強い不出来な弟子は、自分のマスターが他のマスターに帰依したと聞くと、自分が否定されたような気になって抵抗します。人間とは、つくづく愚かな生き物です。こうして無用な対立構造が形成されます。

その方々のマスターが帰依している方なら、当然リスペクトするはずです。観音菩薩や勢至菩薩を信仰する方なら、必然的に阿弥陀仏を信仰するはずです。阿弥陀仏の慈悲心の部分が観音菩薩で智慧の部分が勢至菩薩なのですから、その両方を重ね合わせた阿弥陀仏を信仰してもいい筈です。

◎悟りのイメージ

一般の人は「悟り」とか、「ニルバーナ(涅槃)」「解脱」「覚醒」という概念について、どんなイメージを持っているのでしょう?実は、人によってまちまちのイメージを持っているようです。

では専門的にはどう捉えられているのでしょう。

通説では釈尊(お釈迦様)は、ニルバーナを「蝋燭の火を吹き消した状態」と定義したとされています。この定義は、定義と言うにはとても曖昧なので、他宗の覚者からよく批判されます。

でも私は釈尊の真意が理解できます。実際スピリチュアルワークをしてみて感じたのですが、曖昧な方が良い場合もあるのです。

釈尊は一般大衆を相手に法を説きました。釈尊の功績はそこにあると言われています。

一般信者が相手だと、ヒマラヤの修行者に対するような過酷な修行を求めるわけにはいきません。ヒマラヤの修行者には厳しい見解を述べられても、一般大衆にそれを言うと成長を止めてしまう可能性があります。

他の方の例を挙げると、その方を批判しているように思われるので私の例を挙げます。

私は17歳の時に、最初の「光に還る体験」をしました。その後、何度も光に還りました。私が猊下に最初の光の体験を話した時、猊下はこう仰いました。

「貴方は良い体験をしました。でも、それは本当の“クンダリーニの覚醒”ではない。“疑似クンダリーニの覚醒”だ」

私はこのお言葉を聞いて失望しませんでした。真実を明確に述べることは猊下の慈悲だと知っていました。真実を述べられて感謝する方もいれば、悲しむ方もいます。私は猊下に感謝しました。

私の知り合いだった、ある外国人がいます。個人攻撃が目的ではないので、国籍はふせます。

彼は自分がエンライトしていると勘違いして日本に来ました。そしてエンライトを宣言して弟子を集めました。

ある日、彼は猊下とヨグマタジの講演会に参加して、猊下に拝謁しました。彼は、猊下が彼の覚醒を認めてくれると期待していたのですが、猊下は認めませんでした。彼は自分が否定されたと思い、失望して猊下から逃げてしまいました。

彼はグルトリップしているので、闇の世界に囚われる危険があります。彼ばかりではなく、彼の信者やお弟子さんを含めて、闇の世界に堕ちる可能性があります。

先ず、彼がマスターになりたいという思いの中に不純な要素がありました。「自分がマスターになって尊敬されたい」という不純な動機が見てとれました。多くの「偽マスター」は、そうした気持ちを持っています。

猊下にはそうした不純な気持ちがまったくありません。願いに不純な要素が絡めば、自ずと道を間違えます。反対に、願いが純粋であれば、道は限りなく広がり、限りなく進化します。

私が慢心に陥っていれば、疑似クンダリーニ体験を指摘された時、自分が否定されたと勘違いして猊下の元から離れたかもしれません。

私は猊下に疑似クンダリーニ体験を指摘された数年前に、本当のクンダリーニの覚醒体験をしていました。すなわち、サマーディーを成就していました。だから猊下のご指摘を受けても悲しみませんでした。

上には上が有ることを知って悲しむ人は、何かが欠けています。上には上が有ることを知って喜ぶ人は成長します。皆が皆こうであるなら良いのですが、中々そうはいきません。

◎覚者は道半ばの弟子には優しいが道を究めた弟子には厳しくするときもある

釈尊がニルバーナの定義を曖昧にしたのは、まだ道半ばの存在であるが、良質の魂をもった人々を潰さないためだったと思えるようになりました。若芽を摘まないようにする為だったと思えています。何故なら、釈尊の信者は一般大衆が多かったからです。

釈尊は慈悲の権化だったので、他宗の批判を甘んじて受け、ニルバーナを敢えて柔らかな定義にされたのだと推測しています。

しかし、法を説く相手がヒマラヤの修行者ならそうはいきません。ヒマラヤのマスターは、ヒマラヤの修行者に対してとても厳しいのです。だからサマーディーの定義は、ニルバーナ(涅槃)や悟りなどとは違って、とても具体的で厳密なのです。モクシャ(解脱)の定義はサマーディー程ではありませんが、ニルバーナよりは厳密です。

◎公開サマーディー

私は1992年にヒマラヤで、パイロットババ猊下に邂逅しました。邂逅とは思いがけなく会うことです。

しかしこれまで私の生の中で起こったことをよくよく案ずると、すべては猊下とヒマラヤのアヴァター様方にお会いする為の御計らいだったと気づいてきました。どうしようもない大きな力に引き寄せられ、お会いしたのだと気づいてきました。

私が猊下にお会いしたその日ことでした。猊下は私にこう仰いました。

「貴方は公開サマーディーの準備ができている。我々が総てを準備するからやりなさい」

私は聞き返しました。

「公開サマーディーというのは、一旦肉体は死んで、それからキリストのように復活するのですね?今まで、死んだまま還ってこられなかった例はありましたか?」

猊下のお返事は驚くべきものでした。

「ああ、そういう例は今までたくさんあった。ついこの間もシュリ・シュリ・アナンドという男が、準備のできていない弟子にむりやり公開サマーディーをさせて殺してしまった。彼は現在、殺人の罪で服役している。

死者がたくさん出るので、インド政府は公開サマーディーを禁止しているのだ」

私は「エー!」と思わず声が出てしまいました。「それを私にさせるのですか!」と心の中で叫びました。

すると猊下は笑いながら仰いました。

「今の話は、サマーディーを成就していない者が弟子に公開サマーディーをさせ、その結果殺したという事実を言っただけだ。

私は今まで108回の公開サマーディーを成就している。それ故、インド政府は私の公開サマーディーだけは認めている。

昨年はヨグマタジも公開サマーディーを成就した。私が総てを計らった。

だから私とケイコマタ(ヨグマタジ)は”世界に二人しかいないインド政府公認のサマーディーヨギ”と言われるのだ。だから、安心して公開サマーディーを成就しなさい」

私は唸ってしまいました。私は僅か1週間前に猊下のお名前を知ったばかりでした。ヨグマタジのお名前も、その時初めて伺いました。

それなのに「土の中に入って一度死ぬけれど、復活する。大丈夫だからやりなさい!」と言われても、即答はできませんでした。私は「少し考えさせてください」とお答えするのがやっとでした。

猊下は「来年の10月にインドに来なさい」と私に仰いました。「その時に公開サマーディーをする」とは仰いませんでした。

翌年、私は色々あって、2カ月遅れてインドに行きました。

猊下は私を見て「何故10月に来なかったのだ?我々は公開サマーディーの準備をして貴方を待っていた。しかしもう遅いのだ」と言うではありませんか!

私は猊下に言いました。

「だって猊下は公開サマーディーをするとは仰らなかったじゃないですか!」

猊下は苦笑いをされました。

後日、猊下が「もう遅い」と仰った意味が解りました。私は座禅のしすぎで半身不随になったのです。半身不随になってしまえば公開サマーディーはできません。あの時公開サマーディーをしておけば、ギリギリ間に合ったらしいのです。

もしあの時、遅れずにインドへ行っていれば、私はインド政府公認のサマーディーヨギとなっていたかも知れません。しかし、私はすべてを受け入れました。

元々私はサンカルパ(意思・決断)の力で自由自在に真如(真実の世界)・サマーディーの世界に往き来できるサンカルパ・サマーディーヨギに到達したかっただけの思いで、ヒマラヤで240日間不眠断食座禅をした修行者です。

「世界に三人しかいないインド政府が公認するシッダマスター」と呼ばれることを求めて修行したわけではないので、すべてを受け入れることにはなんの問題もありませんでした。

猊下は私にこう仰いました。

「貴方がサマーディーを成就したことは認める。しかし、貴方はサンカルパの力で、何時でもサマーディーの世界に往き来できるステージには至っていない。そこまで行くように精進しなさい。修行しなさい!」

私は猊下のお言葉を素直に受け止めました。

自分の現状に満足していれば、人は成長できません。メディテーターは欲を捨てますが、覚醒への欲だけは持ち続けねばなりません。

私は更なるステージのサマーディーへの欲望があったので、猊下のお言葉を聞いて自分が否定されたとは思いませんでした。

◎サマーディー成就者の98%はこの世界に戻らず、残り2%の方がこの世界に戻る

私は1989年にOshoコミューンでエンライトしていると認められ、最初のエソテリック・グループ(秘教グループ)の一員に選ばれました。おかげでOshoコミューンでは二人しか貰えなかった特権を与えられ、良い思いもたくさんしました。同時に、それを妬む自称メディデーター達からさんざん足を引っ張られ、攻撃された嫌な思い出もあります。

私はそういう世間に、うんざりしていました。

私は猊下にこう申しました。

「世間と断絶して、一生ヒマラヤで瞑想を続けたいのです。

利他行をしたい気持ちはあるのですが、自分を救えない人間に他人は救えません。私自身、サマーディーを成就したことを疑ってはいませんが、まだまだ修行半ばの未熟者です。

私は若かりし頃より、利他行の世界にいました。『環境保護』『世界平和』『一切衆生皆平等』という考えを持ち、そのようなムーブメントに参加してきました。でも、私には思うがごとく他者を助けることができませんでした。だから今は、死ぬまで一人で瞑想したいのです。

サマーディーを成就しても、エゴに支配され修行者の足を引っ張っている人間の世界が分かりません。だから利他行の世界に戻るより、内側の世界に還りたいのです」

すると猊下は驚くべき回答を私にされました。それは唐突に思える回答でした。

「サマーディー成就者の98%の人はこの世界に戻らない。残りの2%の方がこの世界に戻る。しかし、そのうち1%の方はサマーディーのショックで精神が狂ってしまう。

だから、覚者を見たければ精神病院に行きなさい。精神病院に覚者が一人くらいはいるよ!」

勿論、ユーモアを交えた仰っしゃり方だったと思います。

猊下は私のサマーディ成就を認めてくださいました。猊下はこう仰りたかったのでしょう。

「サマーディを成就する時、肉体は死に、サトルボディー(微細体)で真如に還る。真如に往っても、還ってこられない人が98%だ。

残りの2%の内、1%の人たちはこの世界に還ってくるが、還ってきてもマインドは無くなり、傍目にはクックー(狂人)になる。

貴方は肉体の死を超えこの世界に還って来られた。しかも、クックーにならずに戻ることができた稀な求道者だ。だから人々にその功徳を回向してください」

古代人の中には障害者を差別するのではなく、反対に敬う習慣があったのです。洋の東西を問わずそういう思想があったのです。古代人は一部のサマーディー成就者がクックーになることを覚者の教えにより知っていたのかもしれません。だから、精神病患者や知的障害者をリスペクトしたのかもしれません。

もう一つ考えられることは、一見クックーに見える覚者がシッディ(悉地と音写、神通力)を持っているため、リスペクトしたのでしょう。

私はサマーディーを体験したから、サマーディーのある段階では精神が壊れそうになるほどの恐怖を体験をするという事実が悟ります。したがって、覚醒した後にマインドが崩壊する方がいるとしても、私は不思議に思いません。

恐怖の段階以上のステップに進まず、この世界に還った人を二人知っています。

一人は私の知り合いの例の外国人でした。その人はサマーディーに至る途中のステージで留まり、サマーディー成就には至りませんでした。彼はその体験について、私に語りました。

「あの時は、もの凄い恐怖だった。何が何だか分からなかった。でも、あの体験後にシッディーパワーを獲得しました」

シッディーパワーを得た彼は、自分がエンライトしたと思い込み、それを人々に宣言しました。そして、おきまりの増上慢に陥りました。猊下も彼のサマーディー成就を認めていませんでした。

私は増上慢に陥れば再び闇の世界に堕ちることを知っていますので、彼がそうならないように、彼の瞑想会への協力を申し出ました。私は、彼がサマーディーを成就していない事を公言しないと約束しました。

私は彼のために人を集め、参加費も出すと言いました。人類覚醒のために、彼のワークに協力しようとしたのです。しかし、彼は私が彼のエンライトメントを肯定していないので、まずいと思ったのでしょう。あるいは、自分の信者を取られると思ったのでしょうか?とにかく、彼は私の協力を拒みました。

私にそんなつもりはまったくありませんでした。私は組織運営が苦手だから、そんな気はありません。ただ、私は覚醒を目指す人々に協力したかっただけでした。残念です。

とても残念ですが、私は彼のエゴを見て、「もうこれ以上彼に関わるべきではない」と判断しました。そしてさっと離れました。親鸞さんは「つくべき縁があればともない はなるべき縁あればはなる」と仰いました。

彼は確かに良い体験をしました。あれは得難い神秘体験でした。しかし、サマーディー成就は遙か先にあります。その先に進んだ人達が居ます。その先のステップに突き進んでこの世界に還ってきて、精神障害になる方も実際居るのです。しかし、彼らのマインドが狂ったとしても、マインドは所詮マインドです。そんなものどうでも良いという考えもあります。

マインドが狂い「クレイジーババ」と呼ばれる覚者様たちのように、奇怪な行動をしても、彼らの本質は光です。或いは、光を超えた仏陀のコンシャスネスです。或いは猊下のように、ブッディー(仏意識)を超えた意識です。彼らの「解脱の光輪」は、宇宙の果まで届き続けています。

貴方も心を空っぽにして、知的障害者、精神障害者と呼ばれる人たちに接してみてください。彼らを注意深く見てください。彼らの魂はとても純粋ですよ!とてもとても光り輝いています。

でも彼らに利他行を求めても、成功するとは思えません。彼らはそういうタイプではないのです。そのような人たちに、「慈愛がない。利他行をすべきだ」と責める人はいないでしょう。そういうことなのです。

◎アートマン(真我)とノンアートマン(無我)

私とて自分自身を良く知っています。私は、まだまだの人間だと自覚しています。大学院生時代の私の恩師がこう言っています。

「出会わなければならないただ一人の人がいる。それは私自身」

「私自身」とは、アートマン(真我)だと思っています。恩師の考えている「私自身」ということと、私が捉えている「アートマンとしての私自身」という捉え方とは異なるでしょう。でも、私はそう確信しています。

釈尊がアートマン(真我)をノンアートマン(無我)と言い直した話は有名ですが、釈尊はアートマンに出会わなかった筈がないのです。釈尊はヒマラヤヨガの行者でした。釈尊がヨガとアートマンを認めている経典もあります。もしアートマンを確認していないなら、釈尊はニルバーナを成就していないはずです。

しかし、猊下は「釈尊は間違いなくニルバーナを成就していた」と仰っています。とすれば、釈尊がアートマンをノンアートマンと言い換えたことには理由がある筈です。

サマーディーに至る為には、無心にならねばいけません。無心にも何段階もありますが、深い無心状態になって、初めてサマーディー世界の入り口に到達します。

そこから「クンダリーニの上昇」が起こります。それは、通常理解されている「クンダリーニの上昇」とは全く違います。

この内容を総て話すことは禁止されています。もし、貴方がそれらしき体験をしたのなら、猊下かヨグマタジ、あるいは私にこっそり教えてください。それが本物かそうでないかは直ぐに解ります。

クンダリーニの覚醒後に、『ヨーガ・スートラ』に書かれているような様々のサマーディーのステージに至ります。そこで貴方はアートマンに還るでしょう。その世界の意識は、マインドの意識ではありません。

『ヨーガ・スートラ』で「マインド」と呼ぶのは、超意識とか、超超意識としてのマインドです。瑜伽行唯識学派(ヨーガーチャーラ)で言うところの第七識のマナ識とか、第八識のアーラヤ識のような高次の意識です。六識(六感)のような通常の意識ではありません。

そういう意味では、釈尊がアートマンではなく、ノンアートマンと表現することは解ります。釈尊は誤解されたアートマンの解釈をぶち壊すために、刺激的な言い方をしたのだと推測します。

猊下がヒンドゥー教最大の聖者の祭典であるクンブメーラに、ダライ・ラマ法王を招待した時のことです。ダライ・ラマ法王はこうスピーチしました。

「ヒンドゥー教はアートマンと言い、仏教はノンアートマンと言う。これは大変な違いだ。でもそんな事知ったことか!私には関係がない。我々はヒンドゥーブラザーズだ」

そうなのです。確かに、仏教はヒンドゥー教の一派です。私は仏教とヒンドゥー教に何の違いも見いだせません。

貴方がサマーディーを成就すれば悟ります。私は無我というより、アートマンと言ったほうが適切だと思っていますが、マインドが無いという意味では、ノンアートマンであるのは確かです。アートマンとは通常のマインドでは無いのですから、そういう意味では、ノンアートマンなのです。

学者にとっては大問題でも、私にとっては、大した問題ではないのです。サマーディーを体験もしていないのに、頭でごちゃごちゃ考えても無意味です。そこを喝破したダライ・ラマ法王は、流石に偉大な覚者です。

Aum Namah Shivaya

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