サンカルパヨガ・ファンデーション at 熊野ミニリトリートに参加する方たちへ

2018年11月1日

このメールは、最初、LMさんからのメールへの返信として書きました。
しかし内容が、マハヨギ・パイロットババジ猊下の「公開サマーディー」の話、「12,000年秘密のクリヤヨガ」と「アシュタングヨガ」を継承し、更に発展させた「サンカルパヨガ」などについて書かれているので、リトリートの予備知識として、是非一読していただきたいと思いました。

24番目のアヴァター様としてヒマラヤのアヴァター様達に認められているババジ猊下の紹介で、「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラ・ギリ・ババジ(通称マハ・アバターラーババ)にお会いした話や、同じく「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるアバターラ・ギリ・ババジに猊下のアシュラムですれ違った瞬間、私のサマーディ成就を認めて下さった話などは、あまりにも不思議なことです。

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私でさえ最初は信じられなかったくらいです。パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリの『あるヨギの自叙伝』でマハ・アバターラババが紹介されましたが、実際にお会いするまでは半信半疑でした。ところが、私はある決定的な証拠を見たのでアバター様達は本物だと確信しました。

私にマハ・アバターラババを紹介したのは、クンブメーラの最高指導者であり、「世界に二人しかいないインド政府公認のサマ・サマーディヨギ」「2,000万人聖者の最高峰」「現代の仏陀(覚者)」と称されるババジ猊下ですので、信憑性が増すことでしょう。

猊下が御本に書かれているような話をいきなりすると、普通の人は神話かなにかの話と思い、訝り、疑うことでしょう。

これからお話することの中には、パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリの『あるヨギの自叙伝』に出てくるような不思議な話がたくさんあります。しかし、これらの話は実際に私が体験したことです。実際に私が見たものです。

信じてもらえそうもない話が多いのですが、私には嘘を言わねばならない理由がありません。

私は瞑想をビジネスにする気はありませんので、某カルト教団の偽マスターのように神秘体験を捏造して、弟子や信者を集めたいなどとは思っていません。

私は、私の弟子と信者以外のケアはできません。というより、私は私自身の世話でせいいっぱいなのです。

この世界で救わなくてはいけない人が一人います。

それは私自身です。そしてそれは貴方自身です。

この世界で出会わなくてはいけないただ一人の人が居ます。

それは私自身です。私の中のアートマン(真我)です。

貴方の中のアートマン(真我)です。

偽マスターをやっていたりすると、アートマン(真我)には出会えません。

愚かなマインドトリップをすると、解脱を求めるものにとって一番大切なものを失います。

私は偽マスターになりたいなどと思う気持ちは、まったくありません。そんな馬鹿げたことを望む人間の気がしれません。それは苦労が多くて得るものが少ない虚しい仕事です。

某カルト教団の偽マスターは良き反面教師でした。ああなってはいけない悪い見本です。

内面の美しい世界を旅できる瞑想者は、自ずと世間と断絶したくなるものです。沈黙行に入り、断食し、一人で瞑想することを好むようになります。

何故かと言うと、沈黙行に入り断食すると、無心になりやすいからです。無心は内なる世界の入り口です。一口に無心と言っても何段階もありますが、無心を通して更に深い神秘の世界に没入します。

神秘体験やノーマインドの素晴らしさに比べれば、現実というマーヤ(幻想)の世界は言わば狂気の世界です。内面の世界の美しさを知らないものだけが、偽グルをしたがります。

内側の世界は浄土です。天国です。それを体験したものは、どうしてこの人間のマインドに汚染された世間に戻りたくなるでしょう。

内面の世界から戻って来た時、人間世界に戻るのは苦痛以外のなにものでもありませんでした。ヒマラヤのような美しい世界がなければ、この現実世界は息苦しかったものです。美しい自然だけが唯一帰ってこられる世界でした。

だから、できることなら娑婆世間には戻ってきたくありませんでした。現実世界という仮想現実のような虚しい世界には、戻って来たくありませんでした。猊下のお願いがなければ、世間に戻ってきたくはなかったのです。できるならヒマラヤで死にたかったのです。

ババジ猊下やヨグマタジ(相川圭子師)のような本物の「サンカルパ・サマーディーヨギ」は、衆生救済のために、この荒んで汚れた世界に戻ります。それは仏陀(覚者)の大慈悲です。

私自身としては衆生済度というより、先ず自分自身が「サンカルパ・サマーディーヨギ」になるべきだと思っています。私は自分の面倒もろくに見られない半端な人間ですから、それが先決です。

サンカルパ・サマーディーヨギとは、サンカルパ(意思)の力で、自由自在にサマーディーの世界を行き来できるステージのヨギです。私はまだそこまで到達していません。

釈尊(お釈迦様)がブッダガヤでサマ・サマーディー(正定)を成就した時、その時点では、それは起こったサマーディ(ニルバーナ、解脱)であり、サンカルパの力で自由自在に真如(真実の世界)の世界を往き来できたわけではないそうです。

私はババジ猊下のようにサンカルパの力で自由自在に真如に往き、この世界に還ってこられる究極のサマーディーヨギになる事を目指しています。

「ワールドピース・キャンペーン」「ガイア(母なる地球)保護」「人類覚醒のワーク」は利他行ですが、同時に私自身の為の自利行でもあります。

2003年に、ババジ猊下は私に【サンカルパヨガ・ファンデーション】を立ち上げさせました。

ファンデ-ションの運営のためにはお金が必要です。猊下は「コースや講演会で資金を得て、スピリチュアルワークをしなさい」と仰り、私のために「ヨガ&サマーディーコース」をインドで開くことを勧められました。しかし、色々あって、私は少数の道心のある修行者にのみ指導する道を選びました。

私が知る限り、第1次ヨガ&サマーディーコースの後、4年間のフルコースは一度も開かれていません。1回限りのショートグループがあっただけだと聞いています。

猊下は私にこう仰いました。

「今度コースを申し込む前に、先ず貴方が日本でコースを指導しなさい。準備ができていない者まで呼ぶことは無い。あるレベルに達したメディテーターがそろえば、私が指導する」

猊下は私にこうも仰いました。

「貴方が出会ったマスターと、貴方に起こった神秘体験について、本を出版しなさい。それで資金を得なさい」

本はこれから書くつもりです。但し、ファンデーションを運営する為ではありません。本を書くことによって、僅かでも猊下やヨグマタジのワークのお手伝いができれば良いと考えてやろうとしています。今こうして書いているのはその準備のためです。

周知のように、ヨグマタジは既にたくさんの御本を出版されています。近くのジュンク堂の「精神世界」「神秘主義」のコーナーにはヨグマタジの御本が27冊置かれていました。その時はOshoの本が25冊で、サイババの本が3冊でしたから、如何にヨグマタジの真価が世人に理解されてきているのかが解ります。

勿論、在庫数は毎日変化しますので、これはあくまでその時の冊数です。

本物のサンカルパ・サマーディーヨギの御本がこれだけ売れているのは、同門の一人としては嬉しい限りです。勿論、同門と申しましても、ヨグマタジは私など足元にも及ばないほどの高いステージの方なので、肩を並べるような意味で申しているわけではありません。念の為。

しかし私は、ババジ猊下、「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラババ、アバターラ・ギリ・ババジに邂逅して、普通の人が聞けないような凄いお話をたくさん伺いました。中には「体験した者にしか話せない」極秘の話もあります。

勿論、それらについて話す事はできません。もし話してしまえば、「12,000年秘密のクリヤヨガ」の秘密を暴露し、悪しきカルマを作った愚かな弟子たちのようになります。アバター様達や覚者に反逆した愚か者達の末路は哀れなものです。

ババジ猊下は「マハ・アバターラババはマハバラータ戦争のころから肉体を変えて生き続けている。それは12,000年前だ」と教えてくださいました。

しかし、中には話せる内容もあります。そうした内容については、是非皆さんにシェアしたいのです。

同じ話でも話す人次第で、話の重さが違ってきます。例えば、初めてマハ・アバターラババにお会いした時、私はこう伺いました。

「ババジはどんな瞑想を教えられているのですか?」

ババジは「それはアシュタンガヨガだ」とお答えになりました。私はその時「アシュタンガヨガ」という言葉を初めて聞きました。

マハ・アバターラババは、それから5時間以上かけて私にアシュタンガヨガを指導してくださいました。

私に最初にアシュタンガヨガを教えてくださったのが「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラババだと思うと、我が身の幸運に感動します。

その後、私はアシュタンガヨガについて書かれた本を買いました。本にはマハ・アバターラババが仰った内容とほぼ同じことが書かれていました。しかし、微妙なところで違いがありました。

大きな違いもあります。それはマハ・アバターラババの臨在です。この大きな臨在があるかどうか、その臨在と秘教的意味で繋がれなければ教えは生きてきません。

頭の情報ばかりで、内面の豊かさがない耳学問になっても意味はありません。教えがただの知的理解になってしまえば意味はありません。

臨在を感じられない人は、軽薄なマインドでこう思うでしょう。

「なんだ!この話は知っている。本で読んだ」

実際にババジ猊下から教わったクリヤヨガを教えた時、そう言った人がいます。その方はすぐに興味を無くしました。そして、二度とアシュラムには招待されませんでした。

知識と臨在は全く違います。教理を教えるのが教師です。臨在で示すのがマスターです。

ババジ猊下やヨグマタジ、アバター様のような覚者とお会いしても、マインドでジャッジする人は何も得ることができません。猊下やヨグマタジのような偉大なマスターとご一緒できる幸運を授かった時は、ヘッドではなくハートで聞くようにしなくてはいけません。

私が仏教を学んだ時に、徹底的に教わったことがいくつかあります。

その一つは帰依心です。とても深い知性がなければ帰依心は生じません。盲信から帰依心は生まれません。

「自分は何も知らない無知な存在だ」と自覚することを、浄土の教えでは「機の深心(じんしん)」と言います。細かい違いはありますが、ソクラテスの「無知の知」と似たような意味合いだと思っていただいて結構です。

自分がマーヤ(幻想)の中にいて、何も知らない存在だと本当の意味で自覚できれば、悟りはすぐそこに来ています。本当の意味で自己を知る事ができれば、それは悟りと言って過言ではありません。

その自覚が覚者に対するサレンダーに繋がります。純粋な信心に繋がります。

親鸞さんも「まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし」と言っています。親鸞さんにとっては「まことの信心」は「真のさとり」とほぼ同義です。

真の帰依心は、高度な「悟性(ごしょう)」から生まれます。この悟性とは禅で言うところのもので、西周(にしあまね)が西洋哲学に使用した「悟性(ごせい)」とは違います。カントやヘーゲルの用語とは違います。悟性(ごしょう)は仏性と同義です。

覚者の教えをジャッジせずにアクセプトできること、虚心坦懐に覚者や瞑想の先達の教えを聞くことは、悟りに至る最短コースです。それができる人は、過去世からの良きサンスカーラ(種子)を持っている人です。

この姿勢を学んだことは、私の霊的成長にとても役立ちました。

猊下の御本に書かれているように、マハ・アバターラババの英語は、たどたどしいものでした。しかし、私は頭ではなくハートで聞くことを教わっていました。

虚心坦懐にマハ・アバターラババの臨在を感じていました。言葉ではなく臨在を感じていました。だから私は深いところで繋がりました。マハ・アバターラババもそれを感じてくださいました。その証拠にマハ・アバターラババは、ネパールの秘密の聖地にあるアシュラムに私を招待してくださいました。

ババジ猊下との邂逅(かいこう)があってこそ、マハ・アバターラババとの邂逅が実現しました。私は猊下に感謝しても感謝し尽くせない恩義を感じています。

私は少数の弟子を選びましたが、伝説のアバター様達やババジ猊下、ヨグマタジに教えられた真理を伝えたい気持ちはあります。伝えられないのは「実に勿体無い」と常々思っていたことも事実です。

しかし、私の体験は常人には理解されませんでした。疑念を持たれ、時には謂れなきジャッジをされてきたが故に、私の話をアクセプトできる少数の弟子だけに教えるようになりました。

貴方達の意識性が高まれば、自然に貴方達のワークのクオリティーを引き上げることでしょう。私が猊下に教わったことが、貴方達のワークに役立っていただければ、それで私は本望です。

◎覚者に認可された事実は顕らかにしなければならない

私の体験したことは、通常ありえないことばかりです。しかし、先に申しましたように、偽マスターのように「自分の神聖化」を狙って、体験を捏造して書いているわけではありません。

猊下に瞑想伝授を認可されたこと、【サンカルパヨガ・ファンデーション】の代表者に選ばれた経緯などを書くことは、絶対に必要なことなのです。

例えば、仏典は「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉から始まります。如是我聞とは「私は釈尊からかくの如く聞いた」という意味です。釈尊から聞いた事を明確にすることによって、仏典の正当性を主張します。

あるいは「私は師に何々を認可された」と書くことによって、自身の主張が師から受けついだ正当な教えであることを示します。

しかし、エゴの強い人はそれさえも「エゴの表明」と勘違いします。

それらの言い方が「虎の威を借りる狐」の主張のように受け取る人さえいるのですから驚きです。

パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリやババジ猊下、ヨグマタジのような偉大な覚者の宣言に対してさえも「エゴの表明」と勘違いする人がいます。

そうではありません。それはその方たちのエゴの投影です。もし貴方のエゴが引っかかるなら、どうかそのエゴに気づいてください。見守ってください。サマサティー(正念)を保ち続けてください。

貴方のエゴが反発する時は、それを観ることです。それはそのエゴを解放するチャンスです。私もそうしてきました。

私がサンカルパヨガを猊下にマンツーマンで教えていただく前にしてきた瞑想は、「ヴィパッサナー瞑想」と「サマタ瞑想」でした。共にエゴやマインドを観るだけの瞑想です。昨今、マインドフルネス瞑想として知られる、インドに古来より伝わってきた瞑想法です。釈尊が最も重視した瞑想法の一つです。

エゴの抵抗を観察するのは、たいして難しい作業ではありません。

私が誰かの神秘体験を聞いた時、ある時期からエゴが抵抗するのを感じるようになりました。疑い、嫉妬が湧き上がるのを感じました。瞑想初心者だと思っていた時は抱かなかった、エゴの抵抗が起こり始めました。瞑想に慣れてきて驕(おご)りが出たのです。

私はそのエゴを観察して死滅させました。仏教でいうヴィパッサナーとサマタ瞑想の実践によって達成しました。

ヴィパッサナーは、心の動きを観ることによって智慧を養う瞑想法です。古代中国人は毘婆舎那(びばしゃな)と音写して、「観行」と翻訳しました。

サマタは、観ることでマインドの動きを止めてサマーディーを成就する瞑想です。古代中国人は奢摩他(しゃまた)と音写して、「止行」と翻訳しました。

止行はサマーディーに向かいます。観行は生をより良く生きる智慧になります。因みに止観といえば、天台宗の「摩訶止観」が有名です。

最近「マインドフルネス瞑想法」として知られるものは、ヴィパッサナーとサマタ瞑想がミックスされている止観行のようです。

マインドフルネス瞑想で有名なティク・ナット・ハンはベトナム仏教僧でした。ベトナム仏教は東南アジアでは珍しく北伝仏教です。

北伝仏教とは昔で言えば大乗仏教です。「大乗」とは文字通り大きな乗り物を意味し、「小乗」とは小さな乗り物を意味します。つまり大乗サイドからの侮蔑的な表現なので、1953年にスリランカで開かれた世界仏教者会議でこの言い方を廃止して、南伝仏教、北伝仏教という言い方に変わりました。

ヴィパッサナーは普通サマタと厳密に区別されていますが、マインドフル瞑想においては定義が緩やかだと聞きました。

その理由はいくつか考えられます。

第一に、ベトナム仏教の特殊性が挙げられます。ベトナム仏教は東南アジアでは唯一の「北伝仏教」です。つまり、中国や日本に伝わった仏教と同じです。

しかし、ベトナムは地理的には東南アジアに属します。東南アジアは南伝仏教エリアなので、ベトナム仏教は南伝仏教の影響も受けています。

その上、同じ北伝仏教でも、日本では別宗派になっている禅宗と浄土宗が融合されているというような、言わば「ミックス仏教」なのです。それ故、概念が緩やかになるのかもしれません。

第二に、ティク・ナット・ハンは仏教を知らない西洋人に仏教を教えているので、「悟りを示す正定」より、「この生をより良く生きる智慧の道」である「正念」を強調したほうが良いと考えたのかもしれません。

止観行によってエゴが消滅することは快感でした。エゴの抵抗があれば、自分の弱点の在り処が見えます。それを観て止滅させれば良いだけです。

エゴを見ようとしなければエゴは死にません。エゴは殺されまいとあの手この手でガードします。エゴを守ろうとすれば大変です。エゴは抵抗して絶対に死にません。

エゴを殺すのは簡単です。エゴを認め、手放しになればいいだけです。手を握るのではなく、握った手を開いてしまえば良いだけです。自分を誤魔化そうとせずに、自分のエゴを認めてしまえば良いのです。自分のエゴを弁明せずに、あっさりと認めたほうが楽なのです。

それができるようになるためには、ヴィパッサナーやサマタ瞑想という観法は効果的です。エゴは観られると消える性質があるからです。

一旦コツを覚えると、これ以上楽な道がないことに気づきます。それができた時、怒涛のように私に神秘体験が起こり続けました。

「人は他者のことを語る時、相手のことではなく、実は自分のエゴについて語る」ものです。例えばこんな実例があります。

ババジ猊下が「世界平和の実現」の為に、周囲の反対を押し切ってダライ・ラマ法王をクンブメーラに招待しました。

「世界平和のために、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教やキリスト教の違いを超えて、共に助け合いましょう!」と猊下は呼びかけられました。猊下の呼びかけに応じて、ダライ・ラマ法王や、キリスト教、イスラム教の指導者達がクンブメーラに集まりました。

クンブメーラはヒンドゥー教最大の聖者の祭典です。

ヒンドゥー教の祭典に仏教徒を呼ぶのは、呼ぶ側にとって実はとてもリスキーな事なのです。事情を知らない方には意外でしょうが、インドでは仏教徒は下層階級として蔑視されています。アウトカースト、即ち、カースト外の人非人として差別されています。

仏教僧であった私には許せない現実です。実際、低級な意識がもたらす鼻もちならない優越意識とくだらない差別意識には辟易します。優越意識の裏側には大抵劣等意識が見え隠れします。

反対に、霊的に優れたインド人は彼らとは真逆で、すべての宗教やすべての人々を敬います。

ババジ猊下がその典型です。猊下は総ての宗教をリスペクトしています。総ての人種をリスペクトします。覚者にはカースト差別などありません。群衆だけがカースト差別に囚われています。

カースト意識に縛られたインド人は、ダライ・ラマ法王でさえアウトカーストの法王として見下します。インド人の多くが、ネパール人やチベット人を差別しているのは、悲しい現実です。それにも関わらず、ババジ猊下はダライ・ラマ法王をクンブメーラに招待されたのです。

私は仏教僧でしたので、当然ダライ・ラマ法王を尊敬しています。だから、ババジ猊下がダライラマ法王をクンブメーラに招聘したというニュースを聞いて感動しました。

ところが、世間にはつまらない人も多く、「マハヨギ・パイロットババがダライ・ラマ法王を招聘したのは売名の為だ」などと非難した人もいました。そんな馬鹿げたデマを飛ばすのは、ダライ・ラマ法王やババジ猊下のような覚者とは縁もゆかりもない、一部の愚かなインド人達や外国人たちです。それはその方達のエゴの投影です。

その方達は猊下のことを語っているようで、実は自分の無知と狭隘なマインドを語っているだけなのです。

誰かが一度でも深い瞑想を体験すれば、内側の至福の世界を知れば、世間的地位、名誉、権力、名声など有害な毒物であることに気づきます。一度でも内側の清浄(しょうじょう)なスペースを知れば、世間の毒にまみれた状態に戻りたくなくなります。

私がヒマラヤで深い瞑想に在った時は、アシュラム内での小さな世間と関わることさえ嫌でした。だから、私は絶対に他者と会わないようにして沈黙行を続けました。部屋の窓を締め切り、部屋を真っ暗にして、24時間から72時間もの間座禅し続けました。24時間断食座禅行を240日間続けました。

毎日が無心であるか、神秘体験の連続であるような至福の時間を過ごせば、誰だって世間と断絶したくなるものです。

名誉欲などマインドの毒の代表であり、瞑想にとって有益なことは一つもありません。そんなものを持っていれば、内側の美しく崇高で至上の至福を取り逃がしてしまいます。

そういうステージを体験したことがない人だけが、ババジ猊下のような偉大なサンカルパ・サマーディーヨギをジャッジします。彼らはババジ猊下を語っているのではなく、己の陳腐さを語っているのです。

猊下の名誉のために申します。猊下は釈尊のように、王族として地位も名誉も富もすべて持ち合わせたファミリーにお生まれになりました。だからそんなものを持とうとする必要は無かったのです。

ササラン王国で、ロイヤルファミリーの猊下を知らない人は一人もいません。かつてササラン王国の領土は日本の数倍もあったと聞きます。

ご家族は、ネルー首相を初めインドの有力な政治家と親密な関係をお持ちでした。猊下ご自身も、ラジブ・ガンジーとは空軍の中佐仲間でした。周知のように、ラジブ・ガンジーは母親のインディラ・ガンジーの後を継いでインド首相になりました。

猊下は空軍中佐時代から有名な「空軍のヒーロー」でした。猊下はあることでギネスブックに載り、インド中で有名になりました。その当時、インドで猊下の顔を知らぬ者はなかったそうです。猊下はどこに行っても有名でした。売名行為をする必要などさらさらないのです。

猊下のご家族は、現在もビハール州で三本指に入る大富豪です。人の羨むような地位や名誉、財力など総て持ちながら、ある日突然発心して、猊下は「ナガサドゥー」になりました。

地位も名誉も莫大な財産も捨てて、衣一枚も持たないナガサドゥーになりました。売名行為をしたい人が求める総てを猊下はお持ちでした。猊下はそれらがゴミであることを悟られ、出家されたのです。

サドゥーとは、サマーディー成就を求めて一切の世間的柵(しがらみ)を断ち、私有財産を捨てて、腰布一枚と托鉢用のボールだけを持って遊行する修行者です。ナガサドゥーは最も厳しいサドゥーの一派で、腰布さえも所有せずに全身裸で修行します。

猊下はすぐさま、極寒のヒマラヤに向かい、常人には信じられないような修行をされました。

なんとマイナス50度の世界を、腰布一枚さえ巻かずに裸で、断食しながら一日50km歩く千日回峰行をされました。

因みに、日本に伝わった千日回峰行は、ヒマラヤの千日回峰行の伝統がそのまま伝わったものです。千日回峰行で有名な金峯山寺の御本尊「金剛蔵王大権現」を見た時、私は「シバ神そっくりだ」と思いました。憤怒神(ふんぬしん)で青い身体は、シバ神をイメージさせます。

真言密教や修験道には、密教タントラが色濃く伝わっています。関係があっても不思議ではありません。

日本の千日回峰行も大変です。あまりに過酷な修行のため、歴史上、数えるほどの人しか成就していません。

しかしヒマラヤの千日回峰行は更に過酷です。

ヒマラヤは標高が高く極寒の地です。マイナス40度や50度の世界です。そんな過酷な世界で、裸で40日間断食するだけでも人間業とは思えません。

その上ババジ猊下は、標高2000mから4000m、往復40kmから50kmの距離を半日で行き来したのです。時には4000mのヒマラヤから6000mのヒマラヤへ半日で往復されました。猊下にお話を聞くと、「獣道を通るのだ」とのお答えでした。

猊下はヒマラヤの総ての山に登頂したと仰いました。ということは、8000m級のヒマラヤにも登頂しているということになります。8000m級のヒマラヤには獣道がなさそうに見えます。

この話を或る人にしたら、彼はこう答えました。

「それは走っているのではなく、きっと飛んでいるのだね!」

サンカルパヨガ・ファンデーション代表

Adityananda Giri(アディテャナンダ・ギリ)

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