サマーディーの真実

2020年8月17日

★方便、そして真実を語る言葉

◎ひっかけ問題としての方便

ダンテス・ダイジ師の体験は、明らかにサマーディーにおける体験だと私は思っています。彼の著作にその証拠が随所に書かれています。勿論、方便もたくさんあります。それは当然です。例えば、クンダリーニの上昇といっても、皆さんが想像しているクンダリーニとチャクラの関係と、真実のそれとは全く違うものです。

本物の覚者は真実を知っています。クンダリーニが本当はなんであるのかを知っています。

真の覚者は、パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリの『あるヨギの自叙伝』の宇宙意識体験の中のひっかけ問題に騙されません。ヨガナンダは本物のサマーディー成就者ですので、彼の宇宙意識体験には、方便、ひっかけ問題がたくさんあります。

真のマスターはひっかけ問題を色々仕掛けています。それは偽マスターの輩出を防止するためです。

経典の殆どは方便です。経典の中にはひっかけ問題が沢山あります。だから偽マスターが経典の知識で真実を語ろうとしても、必ずぼろが出るのです。

◎慈悲の方便

偽マスターを防止する方便とは別に、慈悲の方便もあります。

マスターは弟子を覚醒に導くために、色々な方便を使います。所謂、 善巧方便(ぜんぎょうほうべん)です。それはマスターの大慈悲からくるものです。

サマーディーを成就した後に仏典を見直したら、私は経典の殆どが方便であることを発見しました。仏典の中で、サマーディー(=ニルバーナ)を一番正確に表しているものは、私の知る限り華厳経です。それでも60%は方便です。或る経典は99%が方便でした。

しかし、それで良いのです。その方便によって苦しむ者を救済するからです。

奈良平安時代のことです。民衆が飢饉に苦しんだ時代がありました。

「我が身は老いてもうすぐ死ぬ身だ。だから、今すぐ私を殺して私を食べなさい。可愛い我が子である貴方達に生きながらえて欲しい」と願う年老いた母を、泣きながら食べた人たちがたくさんいたことが記録されています。生まれたばかりの愛する赤ちゃんを食べた人々さえいました。

愛する母を食した子供たちは、或いは愛する赤ちゃんを食べなければ生き残れなかった人々は、どれだけ苦しみ、どれだけ辛かったことでしょう。

慈悲深い仏さえも救えない人々を救おうとする大慈悲が、彼らには必要でした。

どうしようもない悪夢に生きているそういう人々にとって、「どんなに悪業を重ねても、念仏すれば救われる」という教えは、とてつもない救いだったに違いありません。その光は、大慈悲光として感じられたであろうことは、想像するまでもありません。

極楽浄土の世界を表す阿弥陀経は、食うに困らず生活できる人々にとっては馬鹿げたおとぎ話かもしれません。しかし、阿弥陀経が99%方便教だとしても、我が母を食らい、我が子を食らわなけらばならないほどの生き地獄を生きる人たちにとっては、救いの教えであり、救いの光であったはずです。

自分は安全圏の中に居て、彼らを鬼だ畜生だと批判することは簡単です。或る意味それは犯罪です。「ヨハネによる福音書」8章にある話では、イエスに敵対していた律法学者たちが、姦淫の罪を犯した女をイエスのもとに連れてゆき、その罪をどう裁くのか迫ります。イエスはそこで次の有名な言葉を投げかけます。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

「罪を憎んで人を憎まず」です。こういうところがジーザスの素敵なところです。

★サマーディーの真実

さて、今まで出会った人々でサマーディーの真実をご存じだったのは、我が師マハヨギ・パイロットババジ猊下とヨグマタジ(相川圭子師)をはじめとする6人の公開サマーディーヨギだけです。

それ以外には、「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラ・ギリ・ババジ(通称マハ・アバターラ・ババ)と、同じく「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるアバターラ・ギリ・ババジだけがサマーディーの秘密をご存じでした。

実はサマーディーを成就しても、理由があって世間に戻らずヒマラヤで修行している無名のサドゥー(遊行者)が何人かいます。私も無名のサドゥーとしてこの世界から離れたかったのですが、ババジ猊下によってこの世界に戻されました。皆さんにサマーディーを成就してもらうためにです。

ところで、私は今までに「自分は覚醒している」と宣言する方に何十人も会いました。そういう方にサマーディーのプロセスを尋ねると、答えることができなくて、「色んな人が覚醒していると私のところに来るのです。困ったものです」と上から下の言い方で誤摩化す人もいました。その方が本当にサマーディーを体験しているのなら話せるはずです。

他の自称覚者は、説明ができないから私の質問を無視しました。

私が反対の立場だったら、やっと本物に出会えた!と心底喜び、宇宙意識体験の方便の部分をお互いに指摘し合います。そして本物かどうか確認します。

私がヨグマタジに初めてお会いしたのは1995年でしたが、その時、私が経験した宇宙意識体験をお話しするや否や、ヨグマタジは興奮されて「それは間違いなくサマーディーね!」と仰いました。

そしてヨグマタジはババジ猊下にテレパシーで呼ばれ、猊下の部屋に入ると何事か相談されているお声が聞こえました。ヨグマタジは猊下のお部屋から戻るなりこう仰いました。

「貴方に起こったものは間違いなくサマーディーです。でもサンカルパ(意思)の力で、何時でもどこでもサマーディー世界(真如)に往き来できるサンカルパ・サマーディーヨギのステージがあります。貴方はそのステージを達成しなければならないのよ」

この後、私は数時間ヨグマタジとお話しいたしました。その時のインタビュー録音は私の宝物です。

このように、真の解脱者は真実を知った者には真実を伝えます。真実を話せない方は、解脱したと勘違いしているだけです。およそ瞑想者には 「絶対的な光、至福、そしてワンネス体験」をする人が意外に沢山います。しかし、それが本物のサマーディーであるとは限りません。

因みに、私が17歳の時に体験した「無量の光と、至福、ワンネス体験」は、サマーディーの遥か手前の光の体験です。この体験をしただけで、覚醒したと勘違いして、人々に間違ったメッセージを発信している方が多いようなので、参考までに私が17歳の時に起こった光の体験を紹介いたします。

17歳、光に還った初めての体験 – サンカルパヨガ・ファンデーション (sankalpayoga.org)

何度も言いますが、これはサマーディーの遥か手前の体験です。それでも言葉にすれば、無量の光と至福そしてワンネスの世界です。

またサマーディーにおける光の体験でさえ、究極の体験ではありません。エンライトメントは、サマーディーのスタートラインに過ぎません。

ババジ猊下は私にこう教えてくださいました。

「『ヨーガ・スートラ』では、サマーディーにおける光の体験は第二ステージのサマーディーとされているが、それは方便だ。本当は第一ステージが光のステージだ。それが所謂エンライトメントだ」

エンライトメントの世界がサマーディーのスタートラインに過ぎないと知った時は流石に衝撃を受けました。何故なら浄土経典で説かれる極楽浄土は、無量の光と無量の寿の世界だからです。つまり光の国であり、そこには時間がない世界です。

そうなのです。サマーディー世界(真如)には時間がないのです。

キリストは「神の国は何ぞや」と聞かれ、「神の国は光の国である」と答えています。そういう世界がサマーディーのスタートラインに過ぎないと知り、私はワクワクしました。

光の先にまだ素晴らしい世界があることを知ったからです。

サマーディーの第一ステージがエンライトメントだとすると、サマーディーの第二ステージはビヨンド・エンライトメントです。

第三ステージはビヨンド・ビヨンド・エンライトメントです。

そして第四サマーディーあるニルビチャールサマーディーは、ビヨンド・ビヨンド・ビヨンド・エンライトメントになります。

そしてこれらのサマーディーとは別格に、真我独存(カイヴァリヤ)のステージがあります。それはビヨンド・ビヨンド・ビヨンド・エンライトメントをも超越した世界です。

否、プラクリティー(自然・自性)がマーヤの世界を展開する以前の何かです。プルシャ(純粋観照者)がプラクリティー(自然・自性)に出会う前の宇宙無き世界です。

★生も幻想であり、死も幻想である

さて、一瞬、一瞬が神秘体験の連続であるような瞑想状態が続くと、この迷妄の世界に戻ってくることは苦痛になります。私はヒマラヤで、深い瞑想状態のままこの世界を離れたいと願い、瞑想し続けました。

だから、猊下に「このまま不眠断食座禅を続ければ後三ヶ月で死ぬ。即座に修行を止めなさい」と制止された時は、やっとこの迷妄の世界から解放される!と心底喜びました。生も幻想であり、死も幻想であることを知識ではなく、サマーディー世界で知っていたからです。

生は幻想ですが「切れば血の出る幻想」です。物理法則がある現実世界です。私は宇宙意識体験からこの世界に戻った時、知りました。

覚者は現実世界が無いと言っているのではありません。現実は「あると言えばあるし無いと言えば無い」世界なのです。

サマーディーという真実世界を知ったから、現実は現実だが真実世界ではないことを覚者は知るのです。

現実世界は、プラクリティー(自然・自性)がプログラムしたマーヤ(幻想)だと知ったのです。

夢は夢から覚めた時しか、それが夢だったと気づきません。夢の中で「これは夢なのだ」と気づいている方は覚醒が近いのです。

覚醒した人が現実世界に戻りたくなくなる心境は、おそらく、世人には理解しがたい心理でしょう。私はこの心理を説明するのにどうしたらよいか色々考えました。そして思いついたのが汲み取り式便所の中の蛆虫たちの世界です。

虫好きの方のためにお断りしますが、私は蛆虫を卑下し、軽蔑しているわけではありません。念のため。譬(たと)えは譬えですので、枝葉末節にとらわれず本質を理解していただければ幸いです。こう私が念押ししても、「蛆虫は蛆虫の生き方をしているので、私はそれで良いと思います」と仰る方がいらっしゃいます。或る意味、私もそう思っています。

しかし、覚者の説く真意を理解していただきたいのです。例えば「群盲象を評す」という有名な釈尊(お釈迦様)の言葉を、盲人差別と受け取る人もいますが、釈尊は差別主義者ではなく平等主義者でした。どうか釈尊の真意を理解していただきたいのです。

さて、汲み取り式便所に住んでいる蛆虫からすれば、周りは人間の糞便という恵まれた食事に囲まれて生きているのです。時には天から、恵みのシャワーと新鮮な食事、即ち、人間の糞尿やトイレットペーパーが降ってくるのです。

蛆虫からすれば糞便世界は極楽世界でしょう。美味しい食事に囲まれ、天上から美食が降り注いでくる世界なのですから。

しかし、蛆虫が何かの拍子に覚醒して、その上、人間の世界に転生したらどう思うでしょうか?いままで極楽だと思っていた世界が天国に思えるでしょうか?きっと地獄に思えることでしょう。

覚者はこの世界がマーヤ(幻想)であり、貴方が楽しく生きているつもりでも、実はマーヤの世界は一切皆苦であると教えます。即ち、すべてが苦であると言い切るのは、真実の世界を知ったからなのです。

人間になった蛆虫さんが、不幸なことに再び糞尿の世界に戻った時の気持ちを想像してみてください。その気持ちはヨガナンダがサマーディーから還ってきた時、「何故この世界に還ってきたのか!あの世界に留まりたかった!」と死ぬほど悔やんだと述懐していることで解ります。

それでも、一切皆苦の世界に戻ってきた蛆虫さんは、帰ってきた以上、マーヤの世界で苦しんでいる同胞を覚醒させてあげたいと願うはずです。

しかし、不幸にも蛆虫さんは言語を持たず、高い意識性がないので蛆虫の仲間に情報を伝達できません。

しかし、人間なら伝達できます。そして神秘体験をさえ伝播させシェアすることができます。ババジ猊下やヨグマタジのお弟子さん達には、それがたくさん起こっています。

不肖この私の周りでもこの30年間、神秘体験をした人が続出しています。最近は一度もお会いしたことがない人にも、オンラインダルシャンを通して神秘体験や瞑想体験が起こっています。

瞑想体験や神秘体験が起こる人は、頭の理解を捨てて、疑いを捨てて、良きエナジー、良きスペースを素直にアクセプトできる方です。雑念を捨てて、心を空っぽにして一心に神聖なるものを求める方です。

他者の体験を羨み、ジャッジして「あれは自己暗示だよ」などと斜に構える人には永遠に何も起こらないでしょう。

また、この宇宙の本質が一瞬にして悟ると言う小さな悟り、即ちグランス(一瞥)を体験した人、或いはグランスの遥か手前のステージしか成就していない方が、マスターをするのは危険です。貴方たちの愛する生徒さんを間違った方向に導くからです。

私がババジ猊下やヨグマタジの足下に及ばないと思うのは、それが事実だからです。謙虚でいるためにそう思うのではなく、真実を知っているから謙虚になるのです。

我が一番と思い、偽マスターをするのが最大の悪業だと、Oshoは言いました。その通りです。偽マスターは自分が最高で、自分が下位の者と思っている信者を育てることはできません。

アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』には「人の不幸は我が身の幸せ」という名言(迷言?)があります。大学時代にこの迷言を知った時、大笑いしました。人間のマインドの愚かさを見事に表した警句だと爆笑しました。

しかし瞑想の世界を知ってから、私はビアスと真逆の立場になりました。「人の幸せは我が身の幸せ」と感じるようになりました。

ただし、その幸せは、誰かが金儲けしたとか、会社で昇給したとかそういうエゴの喜びに関することではありません。人のハートが開くようなシーンに出くわしたとき、私も幸せになるのです。だから私は、長い闇を潜り抜けて、他人の幸福を一緒に喜べるようになりました。そうすると他人の幸せが自分の幸せになるのだから、こんなに簡単で楽しくて、成長が早くなる道を選ばない人々を不思議に感じるようになりました。

★魂の奥底に覚醒の種子を植える

さて、普通の修行者の神秘体験でも、心を空っぽにすれば自分にシンクロするのであれば、ババジ猊下のような偉大なマスターの傍ならもっとすごいことになると思いませんか?

そうなのです。考えられないほどの奇跡が私には起こり続けました。そしてそのスペース、エナジーは、今でも私の周りを包んでいます。

私の周りにはヒマラヤのアヴァター様方の無数の光が周回していると霊視した霊能力者もいます。私にはその光が観えません。観えたらきっと眩しくて歩くことも出来ないでしょう(笑)

私の傍らで神秘体験をした人が何十人もいらっしゃることは確かです。疑いを捨て一心に覚醒を求める方には、いつか必ず素晴らしいことが起こります。

良きことは良きことを呼び、神秘体験は神秘体験を呼び、瞑想体験は瞑想体験を呼びます。

そして遂には体験する主体がなくなるサマーディーに至ります。

私が望むのは、皆さんがそのステージに往くことです。

出来れば今生の内に達成して欲しいのですが、それが無理なら次の生に達成していただけるよう「魂の遺伝子」に、私はレクチャーの中で刻印しています。

誠実で感性の豊かな方、気づきのある方は刻印されたことを知り、神秘体験が起こります。

サンカルパヨガ瞑想リトリート at 静岡で、参加者30人のうち少なくとも13人の方がヒマラヤのアヴァター様方の臨在を感じたと仰いました。少なくとも10人の方の体験には嘘が無いように感じます。

私の話を知識として受け止めているだけでは無意味です。貴方が、次の生に運よく人間に転生できても、過去世の知識を憶えているとは限りません。99.9999%の人が前世の記憶を失います。そうなれば一からやり直しです。

人間にではなく、バクテリアや、ミミズや蛆虫に生まれ変わったら、今生での知識は更に役に立ちません。そうなれば、ゼロ、もしくはマイナスからやり直しです。

だから覚者は、知識ではなく、魂の奥底に覚醒の種子を植え付けているのです。

ヨガや仏教ではそれを薫習(くんじゅう)といいます。薫習 とは梵語(サンスクリット語)の vāsanāの漢訳です。

簡単に言えば、身口意に現れる善悪の行法によって起こった心的印象を、阿頼耶識に留めることです。俗にいう「移り香」ですね。香りが衣に染み付いて残存するようなことです。薫習の薫は薫製の薫ですから解りやすいですね。

AUM NAMO SHIVA E

 

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