2023年9月オンラインダルシャン体験談 No.1

2023年9月9日

2023年9月開催 オンラインダルシャンにご参加頂いた方からの体験談ををご紹介します。

No.1  K.M 様

スワミ様、スタッフ様、皆々様

9月9日にオンラインダルシャンに初めて参加させていただきました、K.Mと申します。この度は誠にありがとうございました。

スワミ様のご登場を瞑想しながら座っている時から、降りてくるような、身体全体に浸透するような、静かなシャクティを感じ、非常に心身が落ち着き、座っていることが心地良い、動くことに努力がいるような状態でした。
本当にあっという間の3時間4時間でしたが、終わった後も今に至るまでずっと静けさが続いています。
オンラインダルシャンの翌日、ベンチに座って静けさを味わっていましたが、横に大きな蜂が止まっていたのがとても心地よく、蜂と一緒に静けさを味わっていました。

その後、特に仕事中に自分の心・感情を観察しましたが、感情が静けさの中に入り込んでいるような感じで、腹が立つような事は起きるのですが、やはり静かなままです。
思考をおこしても、感情に左右されないいつもより深い思考となっています。

パイロットババジ猊下からスワミ様を通してのシャクティ、と理解しておりますが、ほんの僅かの体験しかまだありませんが、このシャクティ・エネルギー・祝福は、とんでもないなと感じております。
ありがたい限りです。

余談ですが、8月29日に初めて接心をいただいた翌日、私(おじさん)の身体からとてもよい香りがし、通勤中不思議に思って自分の身体をくんくん嗅いでいましたら、前から来た若い女性が「うげっ」という顔して道を避けたのはよい思い出です😆

**************************
スワミジ師の返信
KMさん。不二阿祖山太神宮の大祭では大宮司様との霊的交流の場を作っていただき有難うございました。
大宮司様も色々な神秘体験をされていると伺っていますが、大変有意義な魂の交流がありました。本当に素敵な出会いでした。

さて、KMさんはこう仰います。
「思考をおこしても、感情に左右されないいつもより深い思考となっています。 パイロットババジ猊下からスワミ様を通してのシャクティ、と理解しておりますが、ほんの僅かの体験しかまだありませが、このシャクティ・エネルギー・祝福は、とんでもないなと感じております。 ありがたい限りです。

KMさんは私をとおしてババジのシャクティの恩寵があったと仰っています。
でもKMさんに空のスペースがなければこのような体験をしなかったはずです。

KMさんは大きな力にリスペクトしている方なので、宗派にとらわれず
「世界平和・母なる地球の保護の為に人類の覚醒を願うワーク」に参加されています。
その思い、その空のスペースにアヴァター様方のシャクティ(性力)が作用したのでしょう。

いくら大きな力が働いていても、ご本人がマインドのごみで一杯な人には何も起こりません。
マスターは本人の霊的成長を高める働きをしますが、マスターが出来ることは覚醒の手助けだけです。

覚醒を成就するのはあくまで本人です。
本人がエゴやマインドを離れ無になったときに覚醒は起こります。
本人が変わらなければどんなマスターに師事しても駄目です。

マスターは弟子のエゴを破壊します。
それは弟子の成長のためになされる厳しい試練です。
私は猊下からずっと試練を受け続けてきました。
マスターは自分の問題を自分の問題として受け止めざるを得ないような状況を創出します。

何故なら弟子はマインドのコントロールが完全ではないからです。
覚醒したとしても生きていく以上マインドやキャラを使わなくてはいけないので、マスターは弟子に試練を与えマインドを制御するやり方を教えていきます。

何故なら人間がこの世界にある時は、マインドがなくては生きていけません。
覚醒体験した弟子でもマインドを使わなくてはいけないからマスターはマインドの使い方も教えてくれるのです。

パイロットババ猊下はこう仰っています。
「アヴァター様(神の化身・権現)であれ、この世界に降りてくるときは
人間の肉体(粗大身)と共に、固有のキャラクターを持っている。
アヴァター様が感情を持っていること知った」

アヴァター様が感情を持っていなければ、人間のマインドを知ることができないので
それは必要なことなのでしょう。

しかし、アヴァター様でも、覚者でも、真如(真実の世界)に還るときはノーマインド(無心)になります。

ノーマインド(無心)といっても何段階もありますが、サマーディに往く前は
初期段階のノーマインド(無心)よりはるかに高いステージの無心です。

KMさんは、あらゆるマスターをリスペクト出来る素敵な魂をお持ちのようですね。
古来より大きな力に帰依できる方は覚醒に近い方だと言われます。
リスペクトはエゴを包み込みノーマインド(無心)のスペースを創るからです。

私は大きな力にサレンダーしています。
大きな力とは宇宙の根源のことです。
それはブラフマンと呼ばれたり、パラアートマンとも呼ばれます。

大きな力とは、パイロットババ猊下や、猊下のマスターであるハリ・ギリ・ババジ、MahaAvter Giri Baba Ji(通称マハ・アバターラババ),Avatar Giri Baba_ji などのアヴァター様方です。

私は、パイロットババ猊下に一万二千年生きていると言われる、マハ・アヴァターラババを紹介していただきました。
Facebookで紹介したマハ・アヴァターラババのお写真は私が撮影したものです。
そのお写真と同じものは猊下のご本にも登場しています。

私は一万二千年生きていると言われるアバターラ・ギリ・ババジにもお会いしています。

二人のアヴァター様方は何が本当のサマーディか何が本当のヨガなのか私に4,5時間話してくださいました。

インドのサドゥー(sadhu)の最大の団体であるジュナ・アカラのトップである Swami Avdeshanand giri Ji やヨグマタジも4.5時間お話してくださいました。
普通ならお会いすることも難しい聖者様たちです。

私自身、からっぽになっていくときに奇跡は起こり続けました。
それ故、私には長い間恩寵が降り注がれてきました。

もし誰かがひと時でもエンプティ(空っぽ)であれば、私と同じような奇跡や恩寵が皆さんにも降り注がれるはずです。
私の周りではこれまで数々の奇跡が起こり続けてきました。
それらの奇跡は今も起こり続けています。

日本観測史上最強級の台風19号ハギビスがサンカルパヨガ瞑想リトリート会場を襲った時の奇跡や、気象庁と国交省が異例の会見をして、史上最大の被害をもたらすおそれがあるとして特別警報級とした台風10号海神(ハイシェン)の進路が私の講話が始まった瞬間に進路を変えたこと。がん患者の癌が短期間で半減したこと。
このような奇跡が私と同じように、皆さんにも起こるはずです。
確かに、これらの奇跡は間違いなく私の力によるものではありません。
それは明らかに自然の力です。
しかし、奇跡は私というエゴが落ちた時にしか起こらないものです。

これは私というエゴが無いときに覚醒が起こることと共通するものがあります。
私が無くなった時に覚醒するので、「私が覚醒した」表現は出来なくなります。
私が無い時に覚醒が成立するのだから、「私が覚醒した」という表現は自己矛盾になります。

このことと同じように私というエゴが無い時に奇跡は起こってきました。
奇跡が起こるときは私と言うエゴが介在しない時なのです。
エゴが出てくれば祈りは通じず奇跡は起こらないのでした。

浄土真宗的に言えば、自力無効を知らされ阿弥陀仏にサレンダー(明け渡す)する。
大きな力の象徴である阿弥陀仏に帰命する。
自力の計らいを断念したところで仏の力を得る。その力は自分の力ではなく、阿弥陀仏の力なので他力という。他力とは他者依存ということではない。他力の他は阿弥陀仏のことであるから他力とは仏力という意味で他者依存とは全く違います。。

覚醒は自力で到達できるものではなく、自力のマインドを一切捨てた時に初めて到達する世界です。
自力の極限まで行った時に、自力のエゴが落ちエンプティ(空っぽ)になったときに覚醒は起こります。
つまり、覚醒は他力=仏力によるものなのです。

私は1989年に宇宙の根源そのものに還ったことがあります。
宇宙の創生が始まる前の宇宙を、私ではない純粋観照者が観ていました。

サマーディ成就者は地球とコンタクトできるので、自然が味方すると言います。
つい最近も強風大雨注意報が発令された中で、木こりセヴァが行われましたが、アシュラム(道場)の周りは雨も降らず、風も吹きませんでした。
それ故、つつがなく作業は行われました。
ところが,アシュラム(道場)から車で5分にあるスーパーでは大雨が降っていたそうです。

歎異抄に「念仏者は、無碍(むげ)の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇(てんじんじぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も障碍(しょうげ)することなし」とあります。

私からすれば、阿弥陀仏は単なる一人格仏ではなく、宇宙の根本原理というか、存在そのもののような存在です。

他宗においてはその根本原理を大日如来と言ったり、メシアと称したり、名称は色々あるけれど,名称は何でもいいのです。好きな名前で呼べばよい。真理は一つだからです。

そういう次第で、念仏者という言葉を「真の帰依者」と変えて歎異抄を読んでみると、
真の帰依者には天の神や地の神も敬服(きょうぶく)し、魔界外道も邪魔できないと読めます。

地球は、自然は、天の神や地の神は、私を助け続けてくれました。
台風や地震の中での数々の奇跡は自然が私に応えてくれた証拠です。
そういう意味では、私を通して起こったものだというKMさんの理解を否定することはできません。

ところが、世の中には色んな人がいるもので、ババジやアヴァター様方のパワーも根源のシャクティから来ていると言った途端こう宣った人がいました。

「なんだ!ババジやアヴァター様たちパワーも根源のシャクティから来たものだったのか!それなら我々と変わらないじゃないか!ババジやアヴァター様も根源から力を得ているのならアヴァター様方をリスペクトしなくても罰は当たらないな」

ものすごい暴言です。自分が何を言っているのか彼らは知らないようです。
もしその方とアヴァター様方が同じならアヴァター様方による奇跡をその方も起こせるはずです。起こせないのなら、その人にエゴとマインドのごみがあるからでしょう。
そのように傲慢な姿勢であれば、大きな力から与えられた恩寵さえ無くしてしまいます。

なるほど、我々は神からできています。アヴァター様達やパイロットババ猊下もこの点は同じです。
でもババジとアヴァター様と我々がすべて同じとは私には到底思えません。

ババジも人間ですから、当然人間のマインドやエゴを持っています。
この世界はノーマインド(無心)・ノーエゴでは生きられません。
試しに無心で車を運転してください。
完全な無心であるなら運転はできません。

よく武道家が無心で技を出したとか言いますが、完全なノーマインド(無心)状態なら動くことさえできません。
ノーマインド(無心)と言っても完全な無心なら動くことさえできません。

武道においてノーマインド(無心)ということは、正確に言えばマインドを持ちつつも、その中にノーマインド(無心)のスペースを持っているという意味です。

覚者はこの世界ではキャラクターを持っているし、マインドやエゴを持っています。
そのキャラを好む人もいれば好まない人もいます。
聖者の生き方が好きな人もいれば、親鸞のような肉食妻帯を認める人間らしい生き方が好きな人もいます。

聖者信仰する人の中には、肉食妻帯を宣言した親鸞や、蓮如によって浄土真宗に改宗した一休禅師の生き方を嫌う方もいます。一休はその著狂雲集に森女との赤裸々な性生活を描写しました。私はそれを読んで一休に幻滅はしませんでした。
70歳を過ぎた一休が孫くらい離れた女性と真摯に恋愛した一休に私は共感します。

自分は肉食妻帯し、飲酒もするくせに、親鸞や一休を批判する人々の身勝手さに私は驚きを禁じえません。
自分のイメージに合わせて覚者を見るな。覚者の高い意識に合わせよと言います。

親鸞も一休も常識に囚われず、エゴではなく魂の求めるままに生きたと思います。

因みにパイロットババ猊下は映画や著作を見ればお分かりですがとても人間味に溢れた覚者です。
私は猊下にヒマラヤに導かれてから30年たちますが、猊下を偶像化する人々からすれば、そのイメージを壊すような猊下の人間らしさを含めて私は好きなのです。

「覚醒したら我々は神でできていることを知った。我々は最初から悟っていた。
だから覚醒する必要はない」という方もいます。

その気持ちは分からないでもありません。
深い瞑想体験をした方はこの世界が完璧なことを知るからです。

確かにこの世界は完璧です。
それは間違いない。
だから覚者はこの世界が美しいと称賛します。

でもマインドはこの世界の美しさを破壊しています。
これもまた事実です。
暴力、レイプ、幼児誘拐、殺戮、戦争、憎しみ、差別等々ありとあらゆる闇にこの世界が支配されていることを一体誰が否定できましょう。

この闇の世界を問題にしないという主張は、うっかりするとこの世界の闇を直視させないことになります。それは、ものすごく危険な主張になります。

あらゆる覚者は至福を体験していてこの世界が完璧であることを主張しますが、同時にマインドによってこの世界が無明の黒闇に覆われていることを指摘することを忘れていません。

覚者と未だ覚醒しない存在も同じく神でできているけれど、まったく同じなら覚醒する必要はなくなりますが、そうであるならこの闇の世界は一体何なのでしょう?

道元も同じ疑問を持ったようです。
私は道元の考えに賛成です。
私はこの世界の無明の黒闇を晴らすには覚醒するしかないと思います。

Aum Namah Shivaay🙏

**************************

____________

コメント

タイトルとURLをコピーしました