2019年立山リトリート資料No.1

2019年6月19日

◎クンブメーラの会場でマハヨギ・パイロットババジ猊下にマハ・アバター・ギリ・ババジを紹介される

マハヨギ・パイロットババジ猊下の紹介で「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラ・ギリ・ババジ(通称マハ・アバターラババ)にお会いした話や、同じ肉体をマハ・アバターラババと共有しながら、別のアバター(化身)として顕現するアバターラ・ギリ・ババジと邂逅した話などは、あまりにも不思議なことです。当の私でさえ、最初は信じられなかったくらいです。

パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリの『あるヨギの自叙伝』を読んでマハ・アバターラババのお名前は知っていましたが、実際にお会いするまでは半信半疑でした。ところが、私はある決定的な証拠を見たので、アバター様達は本物だと確信しました。

このような話ですから、リトリートの時にいきなりお話しするより、先にお話ししておいたほうがよいと思いました。俄(にわか)には信じてもらえそうもない内容ばかりだからです。予習のつもりで読んでいただければ幸いです。

しかし、道心のある方ならば、あの伝説のアバター様達の話が聞けるとあらば、身を乗り出して聞くことでしょう。私の知り合いでも、『あるヨギの自叙伝』を読んで感動して、スピリチュアルの世界に入ったという方がたくさんいます。故稲葉耶季(いなばやすえ)裁判官もその一人です。あの本の中で最もミステリアスな話が、数千年生きているといわれるマハ・アバターラババの話です。

私にマハ・アバターラババを紹介したのが、クンブメーラの最高指導者であり、「世界に二人しかいないインド政府公認のサマ・サマーディヨギ」「2000万人聖者の最高峰」「現代の仏陀(覚者)」と世界中で称賛される、マハヨギ・パイロットババジ猊下ですので、信憑性が増すことでしょう。

信じない方は、はなから信じないでしょうが無理はありません。だから信じてくださいとは申しません。私は事実を申し上げるだけです。これらの話をどのように受け取られるかは「面々のお計らい」です。

猊下がご本に書かれているような話をいきなりすると、普通の人は神話かなにかの話と思い訝(いぶか)り、疑うことでしょう。これからお話することの中には、『あるヨギの自叙伝』に出てくるような不思議な話がたくさんあります。しかし、これらの話は実際私が体験したことです。実際に私が見たものです。信じて貰えそうもない話が多いのですが、私には嘘を言わねばならない理由がありません。

私は、瞑想をビジネスにする気はありません。神秘体験を捏造して、弟子や信者を集めたいなどとは思っていません。

私は、私の弟子と信者以外のケアはできません。というより、私は私自身の世話でせいいっぱいなのです。

この世界で救わなくてはいけない人が一人います。それは私自身です。そしてそれは貴方自身です。

この世界で出会わなくてはいけないただ一人の人が居ます。それは私自身です。私の中のアートマン(真我)です。貴方の中のアートマンです。

偽マスターをやっていたりすると、アートマンには出会えません。愚かなマインドトリップをすると、解脱を求める修行者にとって、一番大切なものを失います。

内面の美しい世界を旅できる瞑想者は、自ずと世間と断絶したくなるものです。沈黙行に入り、断食し、一人で瞑想することを好むようになります。何故かというと、沈黙行に入り、断食すると無心になりやすいからです。

無心は内なる世界の入り口です。無心はゴールではなく新たなスタートラインです。

一口に無心と言っても何段階もありますが、無心を通して、更に深い神秘の世界に没入します。

神秘体験やノーマインドの素晴らしさに比べれば、現実というマーヤ(幻想)の世界は言わば狂気の世界です。内面の世界の美しさを知らないものだけが、偽グルをしたがります。

内側の世界は浄土です。天国です。それを体験したものは、どうしてこの人間のマインドに汚染された世間に戻りたくなるでしょう。

内面の世界から戻って来たときは、人間世界に戻るのは苦痛以外のなにものでも無かった。

ヒマラヤのような美しい世界がなければ、この現実世界は息苦しかったものです。美しい自然だけが唯一帰ってこられる世界でした。だから、できることなら娑婆世間には戻ってきたくなかった。現実世界という仮想現実のような虚しい世界には戻って来たくなかった。猊下のお願いがなければ世間に戻って来たくはなかった。できるならヒマラヤで死にたかった。

ババジ猊下やヨグマタジ(相川圭子師)のような本物の「サンカルパ・サマーディーヨギ」は、衆生救済のために、この荒んで汚れた世界に戻ります。それは仏陀の大慈悲です。

私自身としては衆生済度というより、先ず自分自身がサンカルパ・サマーディーヨギになるべきだと思っています。私は自分の面倒もろくに見られない半端な人間ですから、それが先決です。

サンカルパ・サマーディーヨギとは、サンカルパ(意思)の力で、自由自在にサマーディーの世界を行き来できるステージのヨギです。私はまだそこまで到達していない未熟者です。道半ばの者です。

ビジネスワークは、私には負担が大きすぎます。向きません。私は気楽な生活を送る方が性にあっています。

但し、今回のようにクリヤやサンカルパヨガを教えてくださいとお願いされたときは、出かける用意があります。

道心のある方に頼まれた時は教えています。我々のリトリートに参加したいという人は受け入れます。

貴方にそれが可能なら、ババジ猊下やヨグマタジに直接教わるのがベストです。お二方とも真のサンカルパ・サマーディーヨギだからです。

とは言え、猊下は超多忙な方です。コースを指導する時間的余裕は、もはやなさそうです。だから私はヨグマタジに指導して頂くのがベストだと思っています。

諸般の事情でヨグマタジにご縁が無い方や、過去世で私とご縁があった方は、一緒に瞑想すれば良いでしょう。

◎マハヨギ・パイロットババジ猊下にサンカルパヨガ・ファンデーションの設立を勧められる

2003年年4月に、ババジ猊下は私に【サンカルパヨガ・ファンデーション】を立ち上げさせました。

ファンデ-ションの運営のためにはお金が必要です。猊下は「コースや講演会で資金を得てスピリチュアルワークをしなさい」と仰り、私のために「ヨガ&サマーディーコース」をインドで開くことを勧められました。しかし、色々あって、私は少数の道心のある修行者にのみ指導する道を選びました。

私が知る限り、第1次ヨガ&サマーディーコースの後は、4年間のフルコースは一度も開かれていません。1回限りのショートグループがあっただけだと聞いています。

猊下は私にこう仰いました。

「今度コースを申し込む前に、先ず、貴方が日本でコースを指導しなさい。あるレベルに達したメディテーターがそろえば私が指導する」

猊下は私にこうも仰いました。「貴方が出会ったマスターと、貴方に起こった神秘体験について本を出版しなさい。それで資金を得なさい」

本はこれから書きます。本を書くことによって、僅かでも猊下やヨグマタジのワークのお手伝いができれば良いと考えてやろうとしています。

◎「ワールドピース・キャンペーン」「ガイア(母なる地球)保護」「人類総覚醒」の願い

「ワールドピース・キャンペーン」「ガイア保護」するためには人類が覚醒しなければなりません。この願いを成就するためのワークに余生を捧げます。

周知のように、ヨグマタジは既にたくさんの御本を出版されています。近くのジュンク堂の「精神世界」「神秘主義」のコーナーに行ったとき、ヨグマタジの御本が27冊置かれているのを確認しました。その時は、Oshoの本が25冊で、サイババの本が3冊でしたから、如何にヨグマタジの真価が世人に理解されてきているのか解ります。勿論、在庫数は毎日変化しますので、これはあくまでその時の冊数です。

本物のサンカルパ・サマーディーヨギの本がこれだけ売れているのは、同門の一人としては嬉しい限りです。同門と申しましても、ヨグマタジは私など足元にも及ばないほどの高いステージの方なので、肩を並べるような意味で申しているわけではありません。念の為。

私は色々あって、今まで達磨大師のように、少数の弟子だけを指導する道を選んできました。

私にはヨグマタジのような大役は務まりません。人間には向き不向きがあります。私のように自由気儘に生きたい人間には、少数の弟子を持つ道が向いていました。

しかし、私はババジ猊下ヨグマタジ、そして「12,000年肉体を変えながら生きている」と言われるマハ・アバターラババ、アバターラ・ギリ・ババジに邂逅して、普通の人は聞けないような凄いお話をたくさん伺いました。

中には、「体験したものにしか話せない」極秘の話もあります。勿論、それらについてすべてを話す事はできません。もし話してしまえば「12,000年秘密のクリヤヨガ」の秘密を暴露し、悪しきカルマを作った愚かな弟子たちのようになります。

アヴァター様達や、覚者に反逆した愚か者達の末路は哀れなものです。

しかし、中には話せる内容もあります。そうした内容については皆さんにシェアしたいのです。

同じ話でも、話す人次第で、話の重さが違ってきます。

◎マハ・アバターラババにアシュタンガ・ヨガを教わる

私が初めてマハ・アバターラババにお会いした時、私はこう伺いました。

「ババジはどんな瞑想を教えられているのですか?」

マハ・アバターラババは「それはアシュタンガヨガだ」とお答えになりました。私はその時アシュタンガヨガという言葉を初めて聞きました。

マハ・アバターラババは、それから5時間以上かけて私にアシュタンガヨガを指導してくださいました。私に最初にアシュタンガヨガを教えてくださったのが「12,000肉体を変えながら年生きている」と言われるマハ・アバターラババだと思うと、我が身の幸運に感動します。

この後、私はアシュタンガヨガについて書かれた本を買いました。その本には、マハ・アバターラババが仰った内容とほぼ同じことが書かれていました。しかし、微妙なところで違いがあります。

大きな違いもあります。それはマハ・アバターラババの臨在です。この大きな臨在があるかどうか、その臨在と秘教的意味で繋がれなければ、教えは生きてきません。頭の情報ばかりで、内面の豊かさがない耳学問になっても意味はありません。

教えがただの知的理解になってしまえば、あまり意味はありません。臨在を感じられない人は、軽薄なマインドでこう思うでしょう。

「なんだ!この話は知っている。本で読んだ」

実際にババジ猊下から教わったクリヤヨガを教えたとき、そう言った人がいます。そしてその方はすぐに興味を無くし、二度とアシュラムには招待されませんでした。

知識と臨在は全く違います。教理を教えるのが教師です。臨在で示すのがマスターです。猊下やヨグマタジ、アヴァター様のような覚者とお会いしても、マインドでジャッジする人は、何も得ることができません。

ババジ猊下や、ヨグマタジのような偉大なマスターとご一緒できる幸運を授かった時は、ヘッドではなくハートで聞くようにしなくてはいけません。

◎盲信から帰依心は生じない

私が仏教を学んだ時に、徹底的に教わったことがいくつかあります。その一つは帰依心です。とても深い知性がなければ帰依心は生じません。盲信から帰依心は生まれません。

「自分は何も知らない無知な存在だ」と自覚することを、浄土の教えでは「機の深心(じんしん)」と言います。細かい違いはありますが、ソクラテスの「無知の知」と似たような意味だと思っていただいて結構です。

自分がマーヤの中にいて何も知らない存在だと本当の意味で自覚できれば、悟りはすぐそこに来ています。本当の意味で自己を知る事ができれば、それは悟りと言って過言ではありません。その自覚が覚者に対するサレンダーに繋がります。純粋な信心に繋がります。

親鸞さんも「真の信心得る人はこのたびさとりをひらくべし」と言っています。親鸞さんにとっては「真の信心」は「真のさとり」とほぼ同義です。

真の帰依心は高度な「悟性(ごしょう)」から生まれます。悟性は仏性と同義です。この悟性とは禅でいうところのもので、西周(にしあまね)が西洋哲学に使用した「悟性(ごせい)」とは違います。つまり、カントやヘーゲルの用語とは違います。

覚者の教えをジャッジせずにアクセプトできる、虚心坦懐に覚者や瞑想の先達の教えを聞くことは、悟りに至る最短コースです。それができる人は過去世からの良きサンスカーラ(種子)を持っている人です。この姿勢を学んだことは、私の霊的成長にとても役立ちました。

猊下の御本『ヒマラヤへの扉』に書かれているように、マハ・アバターラババの英語は、たどたどしかった。しかし、私は頭ではなくハートで聞くことを教わっていました。虚心坦懐にマハ・アバターラババの臨在を感じていました。

言葉ではなく臨在を感じていました。だから私は深いところで繋がりました。マハ・アバターラババもそれを感じてくださいました。

その証拠に、マハ・アバターラババは、ヒマラヤの秘密の聖地にあるアシュラムに私を招待してくださいました。そして、名刺をくださいました。アヴァター様が名刺を持っていらっしゃることに驚きを感じましたが、現代に生きるアヴァター様ですから、それも当然でしょう。

ババジ猊下との邂逅があってこそ、マハ・アバターラババとの邂逅が実現しました。私は猊下に感謝しても感謝し尽くせない恩義を感じています。

私は今まで表に出ることは無かったのですが、伝説のアヴァター様やババジ猊下やヨグマタジに教えられた真理を伝えたい気持ちはあります。伝えられないのは実に勿体無いと常々思っていたことも事実です。

しかし、私の体験は常人には理解されませんでした。疑念を持たれ、いわれなきジャッジをされてきたが故に、私の話をアクセプトできる少数の人々だけに教えるようになりました。

知らない間に、そういう人々が増えてきていることを知り、私は驚いています。そして大変嬉しく思っています。

今回のリトリートが、皆様の瞑想性を高めることになれば私はそれで十分です。それが私に託した猊下の願いです。

私が皆さんにお会いしたのは、猊下の仏縁によるものです。ババジ猊下と言う最終サマーディーヨギ、即ち仏陀の御縁です。皆さんの意識性が高まれば、自然に皆さんのワークのクオリティーを引き上げることでしょう。

私が猊下に教わったことが、皆さんのワークに役立っていただければ、それで私は本望です。

◎覚者に認可された事実は顕らかにしなければならない

私の体験したことは、通常ありえないことばかりです。しかし、先に申しましたように、世間にたくさんいる偽マスターのように自分の神聖化を狙って、体験を捏造して書いているわけではありません。

猊下に瞑想伝授を認可されたこと、【サンカルパヨガ・ファンデーション】の代表者に選ばれた経緯などを書くことは、絶対に必要なことなのです。

例えば、仏典は「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉から始まります。如是我聞とは「私は釈尊からかくの如く聞いた」という意味です。釈尊から聞いた事を明確にすることによって、仏典の正当性を主張します。

或いは、「私は師に何々を認可された」と書くことによって、自身の主張が師から受けついだ正当な教えであることを示します。

しかし、エゴの強い人はそれさえも「エゴの表明」と勘違いして反発します。それらの言い方が「虎の威を借りる狐」の主張のように受け取る人さえいるのですから驚きです。

パラマハンサ・ヨガナンダ・ギリや、ババジ猊下、ヨグマタジのような偉大な覚者の宣言に対してさえも「エゴの表明」と勘違いする人がいます。そうではありません。それはその方たちのエゴの投影です。もし貴方のエゴが引っかかるなら、どうかそのエゴに気づいてください。見守ってください。サマサティー(正念)を保ち続けてください。 

貴方のエゴが反発する時はそのエゴを観ることです。それはそのエゴを解放するチャンスです。私もそうしてきました。

◎ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想

私がババジ猊下にサンカルパヨガをマンツーマンで教えて頂く前にしてきた瞑想はヴィパッサナーとサマタ瞑想でした。共にインドに古来より伝わってきた瞑想法であり、釈尊が最も重視した瞑想法の一つです。

伝統的に上座部仏教においては、サマタ瞑想を先に修行して、それからヴィパッサナー瞑想へと進むという階梯(かいてい)がとられてきたようです。ヴィパッサナー瞑想を行なうためには少なくとも第一禅定(最高で第四禅定)に入っている必要があるとされ、そのためにはサマタ瞑想を行なわねばならないとされています。

しかし、觀ることによって心の動きを止める事ができるのです。私はそれだけをテーマにヴィパッサナー瞑想をしました。ヴィパッサナーとサマタ瞑想の定義の違いなど知りませんでした。それでサマーディーが成就できれば何の問題もありません。ヴィパッサナーやサマタの定義を学習する暇など無く、実践したものです。

エゴの抵抗を観察するのは、たいして難しい作業ではありません。

私が誰かの神秘体験を聞いたとき、最初の頃は素直に驚き、アクセプトできました。しかし、ある時期からエゴが抵抗するのを感じるようになりました。疑い、嫉妬が湧き上がるのを感じました。瞑想初心者だと自覚していたときは抱かなかったエゴの抵抗が起こり始めました。瞑想に慣れてきて驕りが出たのです。

私はそのエゴを観察して死滅させました。

サマタ(巴:samatha)は「観ることでマインドの動きを止める」瞑想です。古代中国人は奢摩他(しゃまた)と音写して、止行と翻訳しました。

ヴィパッサナーを中国翻訳僧は毘婆奢那と音写して、観行と翻訳しました。

私の知人に視力が0.1とか0.2くらいの弱視だった人がいます。その人がヴィパッサナー瞑想を体験した時の話です。

その人は、眼を色んな角度から内観していました。それを一週間続けたら0.1くらいだった視力が1.5になったというのです。

私の場合はヴィパッサナーでマインドを止滅させることしか考えていませんでした。瞑想を生活に役立てようと思う気持ちはなく、ただ、マーヤの世界から覚醒することだけが目的でした。

◎マインドフルネス瞑想

最近、マインドフルネス瞑想法として知られるものは、このサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想がミックスされているような印象です。

マインドフルネス瞑想で有名なティク・ナット・ハンはベトナムの仏教僧でした。ベトナム仏教は東南アジアでは珍しい北伝仏教です。

北伝仏教とは、昔で言えば大乗仏教です。大乗とは、文字通り大きな乗り物です。小乗とは小さな乗り物を意味します。つまり小乗仏教という言い方は、大乗仏教サイドからの侮蔑的な表現なのです。

1950年にスリランカで開かれた第一回世界仏教徒会議でこの言い方を廃止して、南伝仏教、北伝仏教という言い方に変わりました。改められるのは当然です。

ベトナム仏教は東南アジアでは唯一の北伝仏教です。つまり、中国や日本に伝わった仏教と同じです。しかし、ベトナムは地理的には東南アジアに属します。東南アジアは南伝仏教エリアなので、ベトナム仏教は南伝仏教の影響も受けています。

同じ北伝仏教でも、ベトナム仏教は、日本では別宗派になっている、禅宗と浄土宗が融合されているような仏教だそうです。

ティク・ナット・ハンは、仏教を知らない西洋人に仏教を教えています。西洋人はマーヤから解脱する道を選ぶより、瞑想をこの世界に役立てる道を選択します。Apple、Microsoft、Google等のIT企業でマインドフル瞑想を奨励するのは、サマーディー成就の為ではなく、マインドフル瞑想を仕事に活かすためです。

何故IT企業で瞑想を取り入れる傾向が強いかというと、こういう事情があります。

1970年から、ヒッピーを含む反体制的な人々の間でパーソナルコンピューターの開発が進められました。その理由は「国家権力にコンピューターを独占させるとスーパー管理社会になる。スーパーファシズム国家になる。だから個人で持てるコンピューターを開発しなければならない」と考えたからです。そのコンピューターの名前がパーソナル(個人的な)コンピューターです。つまりパソコンです。

そのIT産業の創始者たちが、現在の超格差社会におけるスーパーリッチになっているのは歴史の皮肉です。Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズは若かりし頃、バリバリのスピリチュアル系ヒッピーでした。1970年台にマスターを求めてインド中を放浪しました。彼は長髪を風になびかせるヒッピーで、求道者でもありました。彼がiPadにダウンロードした本は『あるヨギの自叙伝』だけだそうです。そんな事情があってIT企業には瞑想を奨励する傾向があるようです。

仕事の効率化を促進するための瞑想は、本来の瞑想の目的とは違っています。本来の目的は「生死を超えて解脱する道」です。でも精神文明の発達した東洋では割合一般化しているこうした教えは西洋社会では中々理解されません。それ故、生というマーヤ、死というマーヤを超える道、即ち「生死を超える道」を説くよりも

「この世界をより良く生きる道」を強調せざるを得なかったのでしょう。

なのでニューエイジャーにも「悟りの境地である正定(サマ・サマーディー)」を強調するより、正定の一歩手前である正念(サマ・サティー)を強調する傾向がでてきたのでしょう。

正定というゴールに至るための前段階である正念を強調すると、この世界をより良く生きることはできます。

この世界をより良く生きることは問題ありません。しかし、私はそこに満足しませんでした。私はこのマーヤの世界で物事を改善していくような道に救いを求めませんでした。セラピーなどで気持ちを癒やし、変えていく道には満足しませんでした。

私はこのマーヤの世界から抜け出し、自由になりたかった。解脱(完全なる自由)を求めました。

私の体験では、ヴィパッサナーやサマタ瞑想によってエゴを消滅させることは快感でした。

エゴの抵抗があれば、自分の弱点の在り処が見えます。それを観て止滅させれば良いだけです。エゴを見ようとしなければエゴは死にません。

エゴは、殺されるまいとあの手この手でガードします。エゴを守ろうとすれば大変です。エゴは抵抗して絶対に死にません。

エゴを殺すのは簡単です、エゴを認めて手放せばいいだけです。手を握るのではなく、握った手を開いてしまえば良いだけです。

エゴは観られると消える性質があるのです。自分を誤魔化そうとせずに、自分のエゴを認めてしまえば良いのです。自分のエゴを弁明せずに、あっさりと認めたほうが楽なのです。それができるようになるためには、ヴィパッサナーやサマタ瞑想という観法は効果的です。

一旦、コツを覚えると、これ以上楽な道がないことに気づきます。それができたとき、怒涛のように私に神秘体験が起こり続けました。

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