オンライン接心の体験談

オンライン接心の体験談をシェア致します。

小山由記子様

オンライン接心に参加するため、20時30分にZoomのミーティングルームに入室してからずっと、スワミジ師や新規の方々のお話を聴きながら瞑想していました。

しばらくして、頭の中に話し声がしてハッとしました。
「もしかして今(眠気に)乗っ取られた?!」
当たり前なのだけど、頭の中の声と耳から聴こえる声は全く別物。なのに、なんでその瞬間に気づけないんだ!と新年早々、悔しい思いをしました。

それでも次第に内側に入っていくことができました。

その間、スワミジ師から何度か私の名前が出たのですが、なぜか、スワミジ師が呼ぶ私の名前やサマーディに近い体験をしたという事が、今ここに坐っているこの私とは結びつかず、そういう人がいたな~と反応できませんでした。すみませんでした。

眼を瞑っていても瞼の裏や眉間に現れる光を観てる私がいる。観ようとする私がいる。

部屋の中の音を消してても、高周波音や体の音を聴いてる私がいる。聴こうとする私がいる。

スワミジ師や新規の方々のエネルギーを感じている私がいる。感じようとする私がいる。

思考が湧いてこないようにと、それらに集中して観よう・聴こう・感じようとするほど無心から遠ざかる。

「あ、五感、ジャマやわ……」

そうか。思考や感情だけが“私で在ろうとする”ものじゃないんだなぁ。五感は助けにもなるが妨げにもなるものなんだなぁ。そう思いながら瞑想を続けていました。

今朝、昨夜の体験を振り返っていました。

そして接心で、スワミジ師が「マーヤ(幻想)の世界の中の霊能力がサイキック。覚者はマーヤの外にいる」というようなことを仰っていたことを思い出しました。

サイキックな人達は肉体に付随する五感を頼りにし集中し(執着し)五感から離れない。
一方、覚者は肉体の囚われから離れ、よって五感の囚われからも離れ、それらを超えたところに居られる。

五感の内と外みたいな……

もしかして、スワミジ師が仰っていたのはそういうことなのだろうか?

また、スワミジ師は「坐わらなければ瞑想ではない」というようなことも話されていました。

体や思考を動かしていては、真の心の静寂に留まることは出来ないのだろうと思う。

もしかしたら、静寂の中に坐わることでしか、肉体や五感や“私で在ろうとするもの”を超えてはゆけないのかもしれない。

だから、スワミジ師もパイロットババ猊下も瞑想しなさいと仰るのだろう……

そんなことを考えていました。

昨夜の接心は、とても奥が深く重厚さを感じました。

いや、本当はいつも奥が深くて重厚なのだけど、私が浅はかだから、そこに至ることができず、スワミジ師の言葉を表面的にしか受けとっていなかっただけなのです。

スワミジ師のその言葉はいったい何を示しているのか?その言葉の意味するところは何か?

限りある言葉をどのように使って、どのような事を私達に伝えようとして下さっているのか?

少しでも理解できるようになりたい。
もっともっと理解できるようになりたい。

そう強く思った接心でした。

でもそうなるためには、知識を詰め込むのではなく、やはり、瞑想が起きるように坐わり続けるしかないのですよね、スワミジ師。

新たな年の始めに、新たな体験と新たな想いを授けて頂いたことに感謝です✨

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先日の体験談のシェアで、スワミジ師のお言葉を少しでも理解できるようになりたいと書きました。
それは、スワミジ師やパイロットババ猊下の言葉はシンプルがゆえにわかった気になりやすいけど、自らの体験がともなわなければその言葉の深さ・重みを理解することはできないのだと痛感したからです。

そしてまたも、自分のいたらなさ・未熟さを思い知らされました。
ですが、今までなら自己嫌悪や自己否定したり、誰かと比べて落ち込んだりして悲観していたのに、今回は逆に、それはまだまだ伸びしろがあるってことだ!と自分の愚かさや未熟さが、なぜか嬉しくなった接心でもありました。

今思えばそれは、自分を知り自力を捨てた瞬間だったのではないかと思います。
自分は頑張ればできる!もっとやれる!ホントは凄いんだから!そんな思いがかえって自分を苦しめていた。
賢いふりしても、気取ったり見栄や意地を張ったりしても、所詮、私はこの程度の人間です。
「未熟者でアホなやつなんです」
そう認めたら、勝手に背負っていた肩の荷が下り、どんなこともアホな自分の成長に繋がる喜びに変わりました。そしてすべてが他力なのだと、もっともっと委ねればいいんだとわかり始めました。

そんな時に思い出したお話があります。
物覚えが悪くみんなにバカにされていたお釈迦様のお弟子さん、チューダ・パンタカのお話です。

修行についていけずにやめようとした時にお釈迦様にほうきを渡され、掃除するように言われました。それなら自分にもできそうだと掃除し続け、ついに彼は悟りをひらいたといいます。

その話を思い出し、きっと、もし、スワミジ師が私に掃除するよう仰られて、私が掃除し続けても悟れないだろう……お釈迦様に言われて彼が「はい」と返事した「はい」と、今の私の「はい」は全然違うのだ!

うまく言えませんが、まだまだ私には足りない。
バクティもサレンダーも純粋さも。

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スワミジ師は僧侶時代に、このチューダ・パンタカ(周利槃陀伽または周利槃特)という弟子の話が出てくる阿弥陀経を毎日読経されていたそうです。

チューダ・パンタカが釈尊(お釈迦様)の教えを忠実に守り何十年も掃除を続け、本当に落とすべき汚れが貪瞋痴(とんじんち=貪る心、怒る心、無知の心)であることに気付き、悟りを得て阿羅漢果(あらかんか=六道を脱した涅槃の世界)に達したとされること。
そして、茗荷が「名前を荷う」と書くのは、自分の名前もおぼえられず、名札を荷物にしていたチューダ・パンタカの墓から茗荷が生えてきたからだそうだと教えてくださいました。

掃除という一つの事でも、マスターの仰ることをトータルにやれば覚醒するというこの話は、小さい頃から心に残っていたとスワミジ師は仰り、実際そうしてきたと……。

この言葉はずっしりと胸にきます。
スワミジ師がパイロットババ猊下に対して実際そうされてきたことは明白ですから。
マスターの仰ることをトータルに、一切の思考やエゴを挟まずに素直にすぐに「はい!」とやれるかどうか……。私はまだまだ自分の概念や価値観を挟んでしまいます。
掃除という一つの事でも、マスターの仰ることをトータルにやる。それを恐れる自分(エゴ)がいます。そこが、私と、40時間坐られたショコナンダさんやサリーさんとの違いでもあります。

それは、日々の「マスターの仰ることをトータルにやる。「はい」の違い」です。
たった数日で更なる気づきが与えられ、次々と扉が開いて目の前に進むべき道・在るべき姿が示されることに震えがとまりません。

「はい」にすべてを込められるよう、「はい」にすべてを擲てるよう精進します。

スワミジ師、いつもどんな時もありがとうございます。
愛しています。

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