連続72時間、合計81時間の瞑想体験(2023年3月静岡リトリート体験談 No.9)

2023/3/31

20233月開催 サンカルパヨガ瞑想リトリート at 静岡の体験談をご紹介します。

No.9  ショコナンダ様

スワミジ、ババジ猊下、アヴァター様方、今回もリトリートに参加させていただけたことに心から感謝いたします。
リトリートは最も神聖な場であり、そこに参加させていただけることは当たり前ではないことだといつも肝に銘じております。ここに体験談をご奉納させていただきます。

スワミジ師のリトリートに初めて参加させていただいてから、この4月で丸4年になろうとしています。
その間ずっとオーガナイズにも携わらせていただき、スタッフとしてスワミジ師からより多くのご指導をいただくこともできました。いつもスワミジ師と共にあり、ご相談させていただきながら1つ1つ積み上げ、より多くの教えとエナジーを享受させていただくことができました。これは私の人生の大きな転機となっています。

今回はお寺様より開催を許可してくださったこと、ご高配を賜りリトリートは無事に開催することができました。
I.K.様、S.A.様、ご親族様のご厚意に感謝申し上げます。
そして忘れてはいけないことは、瞑想中に壁に飾られているお上人様のお写真からとても力強いエナジーが放射されていて、こうして長年修行者たちを励まされていらっしゃることを理解したと同時に、私たちにもお力添えくださっていたことを心から感謝申し上げます。

*今回のリトリートでは私は納得するまで座ろうと決意していました。
そして連続瞑想として72時間、リトリート4泊5日のトータルの瞑想時間として81時間座り切ることができました。
初日には普通に参加、その夜にスワミジ師のボディケアのセヴァをさせていただいた後にお堂に戻り、その後から最終日の朝までずっと瞑想三昧させていただくという、私にとって最高に贅沢な時間をいただきました。

納得するまでというのは、前回体験した「あの清浄さ」を感じられるまで座りたいと願っていました。ですからそれが起こるまで座り続ける決意をしていました。そのためには長時間瞑想が必要だと思ったので事前の準備をしていました。
私は確かに長時間瞑想することの気持ち良さにハマってはいますが、「長時間への挑戦」や「何時間座るのか」だけですと、瞑想することの目的としては正直不足を感じてしまっています。それよりあの清浄な世界を感じられる状態に至るためなら何時間でも座りたいと思っています。
それが真如の世界へ行くサマディへの初歩的なプロセスなのだと、前回は体験として理解できたのですから、もうそれを求めずにはいられませんでした。
そしてもちろん、スワミジ師の仰る48時間は必ずクリアしようと思ってました。

ですから72時間瞑想をしようと思って初めから望んだわけではなく、リトリート中にはスタッフのみなさんが私にセヴァをしなくていいと言ってお膳立てをしてくださっていたので、最長でそのくらいは連続瞑想の時間が取れそうだな、と思って確認していました。私の求めている追体験が起こる保証はどこにもないのですから、最長どのくらい座れるのかスケジュールを見て覚悟をしていました。
そのような理由からリトリート開始後に早く瞑想を始めたかったので、初日の夜にスワミジ師のセヴァをさせていただく時にそのことをお伝えして許可をいただき、初日と2日目の間の夜中に瞑想し始めました。
許可をいただくときに、「最長で72時間も覚悟してます」とお伝えしたら、スワミジ師は何気なく「72時間はやりすぎじゃないの?」と仰ったので、なぜだろうか気になりずっと頭から離れませんでした。スワミジ師の仰ることは、それが意識的であってもなくても、いつも何か意味があるからです。

*72時間のプロセス
瞑想を始めてから1日以上たって、座っていることには特に問題ないのだけど、何となくエナジーが上がってこない感じが続いていると感じていました。
36時間経ったころ、やっと気が付いたことがありました。
48時間をクリアしようとして、やっつけのような気持ちが私の中にあり、無難にただ座っているのではないかと感じました。
私はスワミジ師、ババジ猊下、アヴァター様がいらっしゃるから、そしてお寺様の素晴らしい場所のエナジーがあるから大丈夫、48時間できる、という気持ちが自分の中に隠れており、変に安心してしまって自分のもっとできること、やるべきことをせずに甘えてしまっているように感じました。たくさんのお力をいただけるのだからと、そこに甘えて自分の最大限出来ることをやらずにいるからエナジーが上がって来ないのだとやっと気が付きました。必死さや集中力が足りなかったのだと反省しました。
そして自分のやるべきことをもっとしっかりやるために厳しくチェックし直しました。自分の姿勢、身体を動かさないこと、マインドを動かさないことを厳しく確認して、そして集中し直しました。瞑想中にできることは、自分自身のサイレンスを保ち、そこに集中することのみです。

その後直ぐにあっという間に身体全体が熱くなり始めたので、「ああ、本来受け取れるエナジーがやっと入ってきた」と感じました。そしていつもの瞑想の感覚、ゆっくりのペースになり深く内側に入っていく感覚を得て静かになりました。

本当にちょっとした油断でこんなにも瞑想の質は違うのだと強く実感させていただきました。痛い経験として身に染み入り、私への最大のアドバイスを下さり、くさびを打っていただいたように思っています。これもババジ猊下の仰る言葉の「マイルストーン(道しるべ)」の一つなのかもしれないと、今となってはそう感じています。今後はもう決して間違えないようにします。
ババジ猊下の講話録の中に「もしあなたが一秒でも動いてしまえば、足を組み替えたり、手を動かしたり、マインドを動かしたり、身体の一部を触ったりしてしまえば、それはどこかに行ってしまう。失われてしまうだろう」とあったのを思い出し、その言葉に出会えていたことにとても感謝しました。

*リスタートしてから時間がどれくらい経ったのかわからなくなり
エナジーが上がり始めたと感じてはいましたが、目的を達成するためにはもっと時間が欲しいと感じ始めていました。
瞑想を最初にスタートしてからはかなり時間が経っていたので、終了するまでに自分の目的である清浄さを感じられるかどうなのか、
もっと時間がほしい、あと2日くらい座りたい、そう思うようになってました。
人の欲望というのはキリがないのだなあと、自分の中から出てきた欲望とはいえ、我ながら欲深さに驚きました。そんなに長い時間座りたいなんてそれまで考えた事もなかったからです。

お腹もとても空きました。
前回の反省でダルさが出る前に何かを補給するようにはしていましたが、
最後の方は座っているのにクラクラしていました。
「大丈夫、座り切る」と自分自身で言い聞かせてましたのでそれを打ち消していました。
スワミジ師の講話の中で首に太陽光を当てるといいと対策を教えていただいてたことを思い出し、講話は聴くためだけのものではなく、実践のための講話なのだと実感いたしました。本当に有難いことでした。

最終日の夜に終わりのリンが鳴るとスワミジ師のガイドの声が聞こえて、「あれ?」とインストラクターじゃないことに気が付きました。
スワミジ師は毎日お昼過ぎに宿泊施設に戻られたらお堂にはその後はいつもいらっしゃらないからです。

そしてしばらくしてスワミジ師は私にとてもやさしく声をかけてくださり、
肩にそっと手を沿えて「しょうこ、もうやめなさい」と仰いました。
私はそれに対して反抗期児童かのように「いやだ!」と言って拒みました。
そしてアイマスクをおろしてしまって瞑想を止めませんでした。
スワミジ師が「いやなのか」とポツリと仰って仕方なく立ち去られるのを感じていました。
スワミジ師がせっかく本来お休みになっていてもいい時間に着替えをしてまで心配して声をかけに来てくださったのに、申し訳ない気持ち、物凄い罪悪感でいっぱいでした。

でもそれよりも自分が納得するまで座ると決めた時間を座り切りたかったのです。
自分の決意を大切にしたかったのです。
ババジ猊下からスワミジ師へ受け継がれている教え、
『自分に帰依し、
自分にサレンダーする、
自分を大切にする、
自分を愛する、
自分にひざまずく』
そのことを瞑想を通して絶対に実践したかったのです。
そうすることで、納得できると思えたからです。
グルであるスワミジ師の言う事を聞かなくていいのか、それをしていいのかどうか迷いが凄く、申し訳ない気持ちでいっぱいではありました。

これは私のカルマかサンスカーラなのかわかりませんが
エゴを落とすプロセスとしてそれが絶対に自分に必要なことだと、今回サマタ瞑想して自分のエゴを見ていて気が付いたこともその背中を押しました。
自分のエゴを観て、それがどこからやってくるのかその源を観て、そしてエゴを消すためには自分自身を大切にして愛する必要があることを感じていました。
自分自身のエゴはなぜ起こるのかその源を観ると、自分自身を大切にしていないからだと感じていました。

今までの人生で自分をもっと大切にしてこなかったからいまのエゴがあるのだろうと
ずっとずっとセルフの声を聴きながら、聞こえていたのに無視して生きてきたから、
そしてそれが理由で、繰り返し何度も同じような数えきれないほど多くの現実を巻き起こしてきたことに気が付きました。
親子家族関係、友人、知人、恋愛、仕事、全ての関係の中で繰り返し、傷つき、悩み、、、
エゴに気づかずに増長させて絶望してきた傾向と出来事が人生の現実を作っていることに気が付き、それらを思い出して並べてみればそれはカルマかサンスカーラかと感じました。
これにはかなりゾッとしました。ですから、ここでもう断ち切らねばならないと理解していました。

そして最後はお寺様の朝のお勤め時間まで座ろうと思ってましたが、
体力的にも限界を感じ始めて、スワミジ師も心配してくださっているから、
2時間早く切り上げてそこでやめました。72時間に達しました。
残念ながら、清浄さを感じられたかについては、時間数を増やして座ったからといって感じられたわけではありませんでした。
今回は瞑想が終わるとパタリと糸が切れるように寝てしまっていました。
お寺様の朝のお勤めの大きな太鼓の真横で仮眠させていただいていましたが、大太鼓が鳴っても気が付かないくらい気を失うように寝てしまっていました。
正に精も根も尽き果てるまで、いまの私の限界まで座り切ることができました。
そのような意味では本当にやり切ることができましたので、とても有難く思っています。

瞑想というのは生き物の様で、その時々で違うのだと思います。
同じ体験をしようと思ってできるものではないのだと。その時々の流れに任せてフローする波乗りのようなもの。
自分で出来ることは、ただサイレンスにあること。アローンネスにあり、そこに集中することだけだと思い知りました。

前回のような清浄な気持ちが感じられたのはもちろん自分の力ではなく、与えて頂いて自分の内側から湧き起こったことなのだとつくづく深く理解しました。
その時のスワミジ師の臨在があってこそ、ババジ猊下、アヴァター様が、真如の世界のほんの一滴を私に与えてくださったものでした。そしてもちろんそれは十分すぎるくらいの量でした。ひとしずくだけでも私には十分に素晴らしい体験でした。

許されるなら本当は毎日瞑想三昧をしたい。
またその清浄さを味わいたいし、いつもそのために瞑想をしたいと思っている。
だからそれを感じられるためなら何時間でも座り、全てをお捧げいたします!と今後のリトリートやアシュラムセヴァへの宣言といたします。

今の私にはこの現実に未練はもうない。
不自由な自分のマインドに付き合い続けなければならない苦痛をどうか超えて行き、
本当の自分である真我、アートマンに出会い、本来のセルフとアウェアネスの至福の中で、また更にそれさえも超えていきたいと願います。
そしてそのためにはとにかく座る事、スワミジ師の元でサンカルパヨガ瞑想をしてマインドの世界から自由になることです。
この肉体とマインドがあってはそれは達成できないと、せっかく教えていただいたのだから。そしてその方法も教えていただいた幸運に感謝をして実践していくのみです。

リトリート後の巡礼に行き、身体に優しい食事をとり始めて1日過ごし、自宅に帰ってから体重を計ったら4キロ減っていました。そうすると、もしかしたらリトリート終了直後にはトータル5キロくらい減っていたのかも知れません。どうりで座っていてもクラクラするはずでした。

私はこの長時間瞑想をさせていただいたことで自惚れてはいないつもりです。
このような機会を私の人生に与えていただいたことに感謝するとともに、むしろ申し訳ない思いもあります。
自分自身の瞑想中の撮影写真やムービーを見せていただいて、
姿勢の揺れや乱れがすごく、それには正直美しさを感じることができませんでした。
自分のしていることを客観的に見れたのは、とてもいい学びをいただきました。
とにかく背中をつけたり寄りかかったりせずに胡坐で座り続ける事だけを実行しました。
時に前のめりになり、ときに揺れて、それは瞑想者としてもっと課題があることをきちんと知ることができました。
自分自身のためにも、それを見守ってくださっているみなさまのためにも、
今後はもっとそれを凛とした美しい姿をしっかり残せるようにしたいと願っています。
サマディ世界に行くことがいつか出来れば、それは枝葉末節の話なのだと思いますけどね。

*庵主様が見守ってくださってたエピソード
途中のどこの日にちや時間帯だったのかは忘れてしまいましたが
瞑想中にずっと後ろに立っている人の気配を感じていて、
「これは目を開けて見たら絶対いないよな」とは思ったのですが、念のためアイマスクを取って目を開けて後ろをチラっと見て確認しました。そしてやはり誰もいませんでした。
そしてまた目を閉じて瞑想に戻るとやはり後ろに誰かが居る気配がしました。
そのことをスワミジ師にお話しすると、庵主様が来てくださっていたのだと教えてくださいました。
庵主様、瞑想を見守ってくださっていたのですね。そしてリトリート全体にエナジーをお分けくださって、こんなにも慈悲慈愛の深い方にご縁できたことを心から感謝申し上げます。
私も庵主様が高い世界に行ける機会を得られる初七日(チベット仏教では人が亡くなって四十九日の内に覚醒するチャンスがあるとされている)だったことから、一生懸命お祈りさせていただきました。このような機会をいただきましたこと本当に有難いことでした。瞑想、お祈りをその場所でさせていただけるだなんて、一生の中でもそうないことだと思います。

庵主様に2019年の10月に初めてお会いした時に、そのお姿に眩いばかりのもの凄い後光が差していらして、こんな風に光の差す庵主様の様になれたらいいなあと思いました。
これからも道場で瞑想をさせていただけたら、もしかして出来るのかもしれないとその可能性を感じさせていただいています。

*振り返るといま私たちがやるべきこと、在り方を問われるリトリートだったように思います。
私たちのサンガもアヴァター様方にやっと厳しくしてもらえる修行者レベルになってきたのかもしれないと感じました。
最近は篩い分けがあまりにも厳しいと感じるようになったので、自分自身を大切にし、自分自身に厳しくできること、より高い意識を常に選択することを求められているように感じています。

ヨガの八支則の第1段階であるヤマ、アヒンサー(非暴力)の項目、
暴力をふるわない、殺生をしない、すべてのものを慈しみ、傷つけないこと、そして自分への暴力や、言葉や思いの暴力も含まれるということ。
そのことが個人的なのか全体的なのかはわかりませんが、クローズアップされてメッセージとして私へ降りてきていました。

先日見かけたシュリ・アナンダマイマー(インドの聖者)のお言葉がそれを表している一番近いものだったので書き留めておきたいと思います。
~どんな状況にあっても平静と平安を保つことが人間の義務です。或る人物についての噂話を聞いただけでその人を悪く思うのは、正しいことではありません。敵意、非難、口汚い言葉、悪意などは、心の内に隠しておいたとしても、必ず自分の身に返ってきます。決して、そんな想いや感情を抱いて自分を害してはなりません。~

私たちサンカルパヨガ瞑想のメンバーは、お互いを慈しみ愛し合い、高め合い、助け合うサンガとして、スワミ・アディティヤナンダギリジ師のご指導の元、意識を合わせてスワミジ師にチューニングし、これからももっと高みへと発展して参ります。私も全てを捧げ精進いたします。
皆さまご一緒に参りましょう!!!これからもどうぞよろしくお願いいたします🙏🙏🙏

Om namo Shivay🙏
Om namon Narayan🙏
Hari Om tat sat🙏
南無妙法蓮華経🙏🙏🙏

💜ショコナンダ💜拝🙏🙏🙏

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