パイロットババ猊下が公開サマーディに導いたお弟子さん達 No.3

梵天勧請の説話

梵天勧請とは、梵天が仏の教えを民衆に広めるように仏陀を諭した逸話です。


仏陀は悟りを得た後に、人間には理解できない教えを衆生に伝えるのは不可能だと悟り、世間に戻らずによりステージの高い世界に往こうとしました。
それをブラフマン神(梵天さん)が人々に仏法を説くように勧請(かんじょう)したのでブッダはやっと仏法を説いたと言うのです。

私がこの話を聞いた時、何故釈尊(お釈迦様)が法を説くのをためらったのか理解できませんでした。
しかし、1989年にサマーディを成就した後に、釈尊の躊躇いが理解できました。
この話を理解するにはグルジェフと言うロシアの神秘家の譬えが分かりやすいので紹介します。

グルジェフの弟子がグルジェフに質問しました。

「覚者と覚醒していない人間の意識は、人間とアメーバーくらいの差があるのですか?」

グルジェフの答えは「そんなに近くはない」でした。
当然です。
宇宙意識と人間の意識の差は、人間とアメーバーの意識ほど近くはありません。

こう考えてください。
一匹の猿が或る日突然、人間の知性や意識を持った。
彼はアインシュタインの相対性理論や量子力学を学びそれらを完全に理解しアインシュタインやボーアを超えた発見をした。
それから暫くして、彼の猿は突然猿に戻った。
さあ、彼はどうやって仲間の猿に量子力学や宇宙科学の説明をする?
それも猿語で説明しなくてはならない。
E = mc2をキャキャ、キャキャキャ キーと説明するのです。
釈尊ならずとも法を説くことは諦めるでしょう。
しかも、我々は、サマーディ中は肉体ではなく,サトルボディー(微細身)やコーザル体であり、ヨガナンダ師の謂いに従えば、宇宙意識に在ります。
しかし、サマーディ世界からこのマーヤの世界に戻ってくれば、真如(真実の世界)から持ち帰った意識を残しつつも、真如の世界と交流しつつも、肉体と意識は三次元の肉体と意識に規定されるのです。
つまり、普通の人間に戻るわけです。
覚醒した猿は、猿に戻れば覚醒した意識を内側に持ちつつも、肉体(粗大身)をもった猿として他の猿と同じになります。
勿論、覚醒した意識は内側に在りますが、宇宙意識をそのまま保っているわけではありません。宇宙意識のままでこの世界を生きられるわけがありません。
宇宙意識では解りにくいのなら無心と考えてください。
無心で在れば生活はできません。食事もできないし、車の運転もできません。
覚者は真如の世界から戻った時は普通の人間になります。
食事もするし、排泄もする。
動き回れば疲れるし睡眠もとります。
病気もするし死にもします。
永遠の生であるのはこの世界の話ではなく真如の世界の話です。
私はサマーディ(=ニルバーナ・真如)を体験して初めてこの事実を知りました。
従って、普通の人は覚者を見てその方が覚者と気づくことは少ないのです。
非常に霊性の高い方だけが覚者を覚者と気づく意識性があるのです。

私を観て覚醒していると見抜かれた存在には大きく分けて二種類の存在がありました。

一つは、マハ・アヴァターラ・ギリ・ババジ(通称マハ・アヴァターラババ)やアヴァターラ・ギリ・ババジのようなヒマラヤのアヴァター様方とババジ猊下のような世を超えた覚者様です。
例えば一万二千年間肉体を変えながら生きていると言われるアヴァターラ・ギリ・ババジがババジ猊下のアシュラム(僧院)で私にすれ違った瞬間「カピル!カピル!サマーディ!サマーディ!」と叫び猊下を呼ばれました。

因みに、カピルとはババジ猊下の俗名です。

アヴァターラ・ギリ・ババジは一瞬にして私のサマーディ成就を見抜かれました。

もう一つは、覚醒はしていないけれど、サイキックな力で覚醒を知りうる人々です。
彼らは所謂霊能力者達です。サイキックです。
霊能力は夢の世界の中での力であり覚醒とは別のものです。
映画マトリックスの中で予言者や予言者の弟子たちが、念力やテレパシーの練習をしていましたが、あの映画はサイキックがマーヤの世界での能力であることを示しています。
あの描写はとても分かりやすい。

サマーディ(=ニルバーナ・真如)の世界は、念力やらテレパシー等という些少な能力など問題にならない次元が違う世界なのです。

こうした人々は覚醒していないけれど、サイキックな力で覚者(=仏陀)を知ることができます。
反対に覚醒しているけれどサイキックな力を持たない覚者もいます。
猊下の話によれば、過去世でサイキックな修行をした覚者はサイキックな能力を持つが、サイキックな修行をしていない覚者は覚醒後もサイキックな力を持たないそうです。

ヨガでも仏教でも覚醒に向かうためには、修行の過程で生じたサイキックな力を捨てていくこと重要だと言います。
猊下の「サマーディ」という映画でもそのことが語られています。
サイキックな力を持つと、他者には無い力を持っているということで、三次元の世界では畏敬の念を持たれます。
そしてエゴを増大させます。これが更なる霊的進化の邪魔になるので、サイキックな力を持ったらすぐに捨て去ることが肝心なのです。
或いは魔女として忌み嫌われることもあります。
これも覚醒のためには邪魔になります。
私は修行の過程の中で色々サイキックな力を持ちましたが、それらを自然に捨ててきました。これは過去世からの修行の賜物でした。この姿勢が良かったので私はニルバーナ(涅槃=サマーディ)に到りました。

ということは、逆に言えば、覚醒してもサイキックな能力を捨てている方も存在するという事です。
覚醒していないサイキックな人が私のオーラやエナジーを観て、私のエンライトを見抜いているにもかかわらず、覚醒した人がそれを見抜けないこともあります。
私からサマーディ(=ニルバーナ・真如)に至ったプロセスを聞いて、初めて私の覚醒を知ったという方もいらっしゃいます。
こういうことを体験として知っている方が本当の覚者です。
“勘ちがい覚者”や耳学問のスピリチュアリストは知らないことです。
私はそういう方がまっすぐに覚醒の道に進み霊的進化をしていただきたいので、敢えて醒めた言い方をしています。
私は過去世でサイキックな修行もして道を間違えたことが有るのかもしれません。
Mさんと言う非常に霊性の高い霊能力者が「貴方の霊能力に比べれば私など足元にも及ばない。そんな貴方が何故私に予知について聞くのですか?」と私に尋ねたことがありました。
私はサイキックな力を封印していると言ったサイキックもいました。まさにそうなのです。道の途中でサイキックな力を得ると、人は得てして、覚醒ではなくサイキックな道を歩もうとします。そうなれば覚醒を阻害することになるから、私の潜在意識はその力を封印しているのでしょう。

*サマーディに還れば完全に宇宙意識の中に在りますが、マーヤ(幻想)の世界に戻りマーヤの中の粗大身(肉体)に在れば、マーヤの世界の法則に束縛されるのです。
覚者が物理法則を超えて空を飛んだり、テレパシーや念力を用いたり、予知能力を持っていれば、普通の人でも他人とは違うことが分かるでしょうが、サイキックな力を持つことと覚醒することは別の事です。
覚醒はマーヤの世界から目覚め、真実の世界に到ることです。
サイキック能力は、マーヤの世界の中で使われる能力です。
映画マトリックスの例をあげれば、ネオたちがコンピューターシミュレーションワールド、言い換えればバーチャルリアリティーから現実世界に還ることが覚醒です。
(以後バーチャルリアリティー世界をVRの世界と表記します)
如来←→如去という言い方をすると、VRというマーヤから真如(真実の世界)の世界に去るので、ネオたちは如去です。

反対にマーヤの住人から見れば真如(真実の世界)からマーヤ(幻想)の世界に来るので『真如(梵: tathatā)より来生(らいしょう)した存在』即ち、如来となります。
マーヤの住人は覚醒した意識を理解できないのです。
それを真の意味で理解していただくには、バーチャルリアリティー(VRの世界)の世界から目覚めて抜け出してもらうしか方法はないのです。
そしてこれは物凄く困難なのです。というか、それは不可能に近いことなのです。
だから多くの覚者は猊下のようにサンカルパサマーディーヨギに到達するまで世間には戻らずに一人で瞑想する道を歩もうとするのです。

上座部ではなく、大衆部より発生した北伝仏教(大乗仏教)では、このような覚者を独覚と言って、「一人悟り一人死ぬ」覚者として一段下に置きました。
私もサマーディを成就する前はそう思っていましたが、成就後はそれが大きな間違いだと知りました。
菩薩と言われた人たちは修行者ではなく、信者で修行者の為にアシュラム(僧院)を建設したり、学校を建設するなどの経済的支援をしていた信者でした。
だから、自分たちが支えた修行者が覚醒したのに、悟りを説かないで去る覚者を不満に思っていた。だから独覚は駄目だと主張したという一面もあるのでしょう。

しかし、そうではないと猊下は仰いました。
覚醒してもその内容を説明できる覚者と出来ない覚者が居る。
だからそれは単にタイプの差だと教えてくれました。
猿が或る日覚醒して人間になって量子力学を学ぶ。
その後、猿に戻り量子力学を猿語で仲間の猿に説明することは不可能です。
覚醒した猿は覚醒しない猿たちの嫉妬と怒りを買い攻撃されます。
キリストや釈尊(お釈迦様)のように受難、法難を受けます。
私もいわれなき攻撃に遭い続けました。
内なる世界での無限の至福の世界を捨てて五濁悪世の世界に帰ることはどれだけ苦しいことかお分かりだと思います。
受難や法難は魔からの攻撃とは限りません。
キリストの受難は神からの試練です。
神によるテストです。
キリストの十二使徒は磔の日に全員キリストを裏切りました。
磔の日に居たのは母親のマリアと恋人のマリアだけだと言われています。
キリストの死後、弟子たちは自らの怯懦を恥じキリストの教えを広めました。
そして「師を裏切ってはいけない」「憎しみではなく愛こそすべて」という教えを世界中の信者さん達の潜在意識まで刷り込みました。

このように覚者の救済の活動は想像を絶する苦難を伴います。
それでも一部の覚者は衆生救済のために猿語を駆使して説明するのです。
根底には大慈悲があるのですが、大慈悲だけではなくそれを説明する知力も必要です。
これは大変なことです。
仏教では仏智を名づけて無分別智とか非常識と言います。
無分別とは分別することができないワンネスの知と言う意味です。
非常識とは「常なる識に非ざる識」と言う意味です。
言い換えれば非常識とは「超常識」です。
世間の人は仏智の示す内容が理解出来なかっので、無分別や非常識と言う本来の意味を誤解しています。

この言葉に限らず仏教用語の深遠さを理解できなかった世人は、たくさんの仏教用語を間違って理解して、間違って使用しています。
現代は量子力学という常識を超えた科学が発展しているので、古代人に覚醒の世界を話すよりだいぶ説明しやすくなっています。
例えば、ヨガ哲学のベースであるサンキャ哲学で語られるプルシャとプラクリティーの捉え方は、
量子力学における観察者と量子のふるまいの発見によって、ヨガが単なる哲学ではなく、土台は違うが科学で有ることを証明しています。
量子力学で初めて知られてきたような真理が一般人にも知られてきているので、覚者も古代の人に話すより説明はしやすくなりました。
しかし、覚者の多くはどういう訳か文系が多いので、理数系の畑に切り込むことは困難です。私も文系なのでこれ以上の切込みができません。

*至福という事の説明の難しさ

サマーディは無限の至福であると表現されます。
私はあの状態を至福と呼ぶには違和感を覚えますが、方便としてそう言うしかないのは理解できます。
それでは、無限の至福という事はどういう事でしょう?
貴方がこの世界で一番幸福だった瞬間を思い起こしてください。
無限の幸福とは、その1兆乗の1兆乗の1兆乗をかけても追いつきません。
有限は無限に追いつかないのです。
さて この至福を覚者はどうやって説明するのか?
言うまでもなく不可能です。
釈尊(お釈迦様)ならずとも諦めてしまうでしょう。
という訳で、覚醒した後に五濁悪世の娑婆世界に戻ることを断念する覚者が多く存在します。
私もヒマラヤで240日間不眠断食座禅をしていた時、申し訳ないけれどこの世界に還る意思などありませんでした。
私は1989年に起こったサマーディを遥かに超えたサマーディに到達することだけに命を懸けていました。
サンカルパ サマーディーヨギになる事だけを目指していました。
あの世界を表現すること等、猿が相対性理論を猿語で説明するようなものです。
覚者は不可能なことをやっているのです。
それは目覚めた者が、未だ目覚めぬ者に対して慈悲心を持っているからです。
私に慈悲心はあったけれど不可能なことはできないと思いました。
それよりも、意志(サンカルパ)の力で何時でも何処でもサマーディに往き来できるパイロットババ猊下のようなサンカルパ サマーディヨギに到達せぬかぎり人類救済のワークは出来ないと思っていました。
しかし、2000年の6月にパイロットババ猊下が、「貴方は達成した。今度はこの世界に戻って人々に功徳をシェアして欲しい」と仰った時、全身が光に包まれ、私は猊下の足元にひれ伏しました。
私は猊下のお気持ちを理解しました。
私は一人で修行しつづけることを断念して五濁悪世の世界に戻ってきました。
或る時、パイロットババ猊下は私に仰いました。
「貴方に起こったことは時がくるまで秘密にしなさい。何故なら人々が貴方に嫉妬して攻撃するからだ」
そして猊下の仰ったとおり、私は人々の嫉妬と怒りを買い、攻撃され続けました。
しかも攻撃者が低級霊や悪霊ばかりではありませんでした。
世間では聖者と思われる修行者からもバッシングされるのです。
その事情を明かすことはできませんが、こういうことにうんざりして世間に戻るのを拒否して、未だにヒマラヤで修行を続けている人もいます。
という訳で、諸般の事情によりその名を公開できない人を除いて、猊下が公にしている公開サマーディ成就者を紹介しました。

Om Shanti Shanti Shanti(愛と平和を)

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