鎌倉の覚者太母さんとの出会いとマハヨギ・パイロットババジ猊下との出会いと再会

この写真を撮った当時は、後ろに花びらは無かったのですが、数年後にある理由で写しだされました。
でも、最初はこんなに花びらが光り輝いてはいませんでした。
畳や柱もこんなに黄金色(こがねいろ)ではなかったのです。毎年色が濃くなります。
太母様や私の顔も、こんなに白く光ってはいませんでした。年々変わっていく不思議なお写真です。
この写真が劇的に変わり始めたのは、太母様が浄土にお還りになった頃です。 これをどう解釈して良いのか解りません。
私が太母様に初めてお会いしたのは、1990年のことでした。実はこの年の1月に私が愛した和尚ラジニーシが入滅したばかりだったので、和尚が覚者と認めた太母様にお会いしたくなったのです。 太母様のお寺の玄関に入った瞬間、ばったり太母様にお会いしました。
太母様は私の顔を見られた後、今度は私の頭上1メートルくらい上を眺められました。
「ああ私のサハスラーラのオーラを見られているのだな」と直ぐに解りました。
太母様は、私の顔を見てニッコリとお笑いになり、「あんたさん。大したもんだなー」と仰り、私の手を掴んでキッチンに連れていきました。
キッチンには10人くらいのお客さんが居ました。中には知り合いであるOSHO(和尚)の弟子も何人かいました。 それから太母様は、他のお客さんを見向きもせず、私一人に五時間くらいお話しされました。 途中、トイレに行きたくなってその旨を伝えると、「ああいいわよ。行ってきなさい」と仰るので、トイレに行こうとしました。すると、その瞬間、私に話しかけてこられるので、私は話を聞かざるをえませんでした。トイレに行かせて貰えませんでした。
それから、延々何時間も話しかけてこられるので、私の膀胱は破裂しそうになりました。
そこで、再び「太母様トイレに行きたいのですが」というと、またもや「どうぞ行ってらっしゃい」と仰るのです。 そこで急いで立ち上がろうとすると、 またもや話かけてこられます。
私は、又、トイレを我慢しました。
そのうち我慢の限界を超えて三度「トイレに行かせてください」と言いました。 すると相も変わらず「行ってきなさい」と仰るので、立ち上がろうとすると、またもや行かせてくれません。
私の頭はパニックになり、喉はからからに乾きました。 でもお茶をいただけば、おしっこを漏らしそうになるので、我慢しました。
そのうちおしっこを我慢しすぎて、意識が朦朧としてきました。
するとある瞬間、マインドが一瞬にしてブラックホールと化して、宇宙に消えていくのがはっきりと見えました。
その瞬間、太母様は「あんたさん。やっぱり大したもんだなあ」と仰り、にっこりお笑いになりました。そして「さあ今度こそトイレに行ってきなさい」と仰いました。
それ以降、太母様は私がトイレに行くことを止めることはありませんでした。
太母様はこのブラックホール体験を引き起こすために、私に間断なくお話し続けたのだと理解しました。
私はこの一件で、太母様が本物の覚者だと悟りました。 これが太母様と私の最初の出会いでした。
この写真は翌年、1991年のものです。

 

○24番目のアヴァター様としてヒマラヤのアヴァター様達に認められている、マハヨギ・パイロットババジ猊下が太母さんにテレパシーを送り私とマハヨギ・パイロットババジ猊下を再会させた話。

1994年、私は内側からの強い衝動にかられ、どうしてもインドに行かなくてはならないと決意していました。
インドに行く前に、太母さんに一言ご挨拶してから行こうと思い、太母さんのお寺に向かいました。
太母さんは富山県大門町(現射水市大門)の誓光寺という東本願寺のお寺にお生まれになりましたが、太母さんをひと目見て只者でないことを悟った西本願寺の勧学の長だった方にスカウトされ昭和5年(1930年) 京都西本願寺にて得度しました。本願寺の一室で座している時「見真」の額の文字が黄金の光の粒子となって全身を包み、宇宙の森羅万象が絵巻物のごとく眼前に展開しはじめ、自らも宇宙大に拡大していく体験をされたそうです。
開眼した後に佛眼宗と言う宗派を立てられ、鎌倉にお寺をお持ちでした。
私は太母さんにインド行きを報告しに鎌倉の霊鷲寺に伺い、インド行きを太母さんに告げました。
意外なことに太母さんは私のインド行きを強く引き止め、こう仰いました。
「あんたさん、私と一生居てね。私が死ぬまで一緒に居てね?」
「あんたさん、今度インドに行ったら、きっと酷い目に会うわよ」事実、そのとおりになりました。

しかし、私のハイヤーセルフは「インドに行かねばならない」と言っていました。
キリストも釈尊(お釈迦様)も親鸞も蓮如も日蓮も壮絶な試練を受けました。
受難・法難を受けて人類の霊的進化に寄与しました。
私はどんな酷い目に遭おうとその試練を受けなければならないとの悲壮な決意をしていました。
そこで太母さんに私のサンカルパ(意思・決断)をお伝えすると、いつもは凛(りん)とされた方なのに、突然、拗(す)ねたように私を軽く睨んで甘えてくるのです。
しかも私を○○さんと呼んで、私の膝にしなだれかかってくるのです。
太母さんはその時、74歳におなりでしたが、まるで少女のように可愛かったのでした。

○○さんという方は、歴史の教科書に必ず出てくる僧侶のお名前でした。
後で解ったのですが、私の過去世の一つはその僧侶でした。
その宗派の方にご迷惑をおかけしたくないのでその名は伏せます。
その名を言っても狂人扱いされるだけです。
その時代の私はサマーディ(=ニルバーナ・解脱)を成就していなかったし、所詮、過去は過去です。過ぎ去った昔です。
私の決心が固いことを知ると、太母さんはさっと気持ちを入れ替えました。
太母さんの素晴らしいところです。
何事にも拘泥しません。
人間の柵(しがらみ)が一つもないのです。
あのように純粋無垢なお方は生まれて初めて見ました。
私は太母さんを見て、自分はまだまだだなと思わされることが多かったのです。

覚醒してもマインドは持っています。
当たり前です。マインドが無ければ生活ができません。
無心で車を運転すれば死にます。
覚醒してマインドの柵があれば、その柵は、更なるステージの覚醒の種になります。
これが煩悩即菩提、即ち煩悩が悟りだと言うことの意味です。
だから太母さんも次のステップの為に或るものを残されて往生されました。
次の生は今生(こんじょう)よりバージョンアップされた覚者として転生されるはずです。私は太母さんらしき少女が出ているある番組を見ました。

太母さんは私を見てこう仰いました。
「あんたさん。インドに行くのならサイババのところに行くでしょう?」
私は「違います。先ずはOSHO(和尚)のところに行きます。それからパイロットババジ猊下のアシュラム(僧院)にも行きます」とお答えしました。

しかし太母さんはこう仰るのです。
「あんたさん。サイババにメッセージを届けてね」

「1つ、サイババは、現在病気なの。
私が癒しの波動を送るからそう伝えてください」

「2つ目、彼の弟子が彼を殺そうとしています。その事を伝えて頂戴ね?」

3つ目はサイババの信者さんの気持ちを考えると言いたくはありません。
一つだけ言えることは、太母さんが仰ったことは数年後に事実であると判明しました。

太母さんはご自分では予言者ではないと仰いますが、時折、シッディ(悉地と音写=神通力)をお使いになられたのでシッディ(悉地)がないわけではありませんでした。

私も時折シッディーパワーが起こるのでその点は頷けました。

私は、太母さんのお話しを聞いて、腰を抜かしそうになりました。
そして太母さんに言いました。

「いくら太母さんの命でもそればかりはできません。
そんな事とても言えません」

私はサイババをリスペクトしていますので、上述のメッセージをお伝えするのは嫌でした。しかし、太母さんは譲りませんでした。
私は重い気持ちでインドに向かいましたが、サイババのアシュラムにはそういう次第で暫く行けませんでした。

ところがあることが起こり、私はサイババアシュラムに行かざるを得なくなりました。
サイババのアシュラムに着いたのは、偶然にも私のボディーバースデーの日でした。
しかしその日は、マハ・シヴァラトリーといって シヴァ神の誕生祭の日でした。

シヴァラトリーとは「シヴァの夜(ラートリー)または吉兆の夜」という意味です。
シヴァラトリーは、毎月、満月から13日夜/14日目にあたります。
しかも、特にパールグナ月(マーガ月となる地域もあります。2月~3月)のシヴァラトリーは、マハ・シヴァラトリーと呼ばれ、一年の内でもっとも神聖な夜として知られています。

後で知ったのですが、シヴァ神の大祭日は厳密に言えばその日ではなかったのです。平日だと信者が集まりにくいので土曜日に変更されていたのです。
こういうことはインドに限らずどこでもよくある話です。

毎月、満月から13日夜/14日目がシヴァムーンと言われる三日月の日です。
陰暦なので毎月、毎年シヴァムーンの日は変わります。
例えば、日本では釈尊(お釈迦様)が悟った日を12月8日に決めていますが、本当は4月の満月の日なので、年によって日付がかわります。
それが不便なので12月8日と日を決めているのですが、インドや近隣諸国では陰暦で決められています。

そういう事情があってシヴァムーンに近い土曜か日曜にシヴァラトリーは行われるところもあるのです。

そのおかげで私のボディーバースデーとシヴァラトリーが重なりました。
私はインドの神の中でシヴァ神が一番好きでしたが、私の誕生日とシヴァラトリーが一緒になったことで、更にシヴァ神に親近感を覚えました。

さて、私はサイババアシュラムに到着するなり、日本人のサイババの信者にコンタクトしました。
OSHO(和尚)が太母さんをエンライトしていると認めた話はサイババアシュラムでも噂になっていました。
だから話はしやすかったのでした。

私は日本人の信者にこう話を切り出しました。
「鎌倉の覚者である太母さんからサイババに重要なメッセージがあります。とても重要なことなので、他の方には言えません。直接サイババご自身に伝えたいのです。どなたかサイババとパイプをお持ちの方をご存知ありませんか?」

すると、その人は、ヒラさんというインド人を私に紹介しました。
私はヒラがインド名だと思っていました。
後で知ったことですが、彼は沖縄の比良(ひら)さんという女性と結婚して比良姓を名乗っていたのです。
彼は沖縄の恩納村という高級リゾート地に、10階建てのホテルを幾つも所有する大金持ちです。彼ならサイババにコネクションを作ってくれると期待しました。

しかし、彼と会い事情を説明した瞬間に、こう言われました。
「いくら私でもそれはできない。それはスワミご自身が決めることです」
私はがっかりしました。

しかし、翌日、朗報が入りました。
比良さんを紹介した日本人が、私にこう言うのです。
「アシュラム内で太母さんの歌を歌っている日本人女性がいます。その人に会いませんか?」
私は「勿論お会いします」とお答えしました。

太母さんの使いでサイババアシュラムに来たのですから、その太母さんとご縁がある女性と会わないわけにはいきません。会うのは当然です。
その人は新潟出身の方で、お名前は博子さんと言いました。

翌日、指定された待ち合わせ場所にいくと、博子さん以外の日本人が数人いました。
話を進めていく中で、その内の一人の女性が突然私にこう言うのです。
「パイロットババジなら、サイババに紹介出来るのだけどな」
私は心臓が飛び出るかと思うほど驚きました。
私は彼女に問いかけました。

「貴女はパイロットババジにお会いしたことがあるのですか?
貴女のお名前はなんと仰るのですか?」

すると彼女はこう答えました。
「私の名は“ももこ”と申します」と答えるのです。
その名前を聞いて私はまた驚きました。
ももこさんのお名前はババジ猊下から聞いていました。
もう30年以上前のことで、記憶は定かではない部分が有りますし、
猊下はインディアンイングリッシュで話されますので、聞き取りが難しいところもあります。
でも猊下のお話と、猊下の信者の話を総合すると大体こんな話だったと思います。
私はババジ猊下にこう尋ねました。
「猊下はどのような過程で日本とご縁を持たれたのですか?」
猊下はお答えしました。
「私がピンダリー氷河で半年間の氷中サマーディーをしていた時、ももこという日本人女性がトレッキングで氷河を通りかかったのだ。」
その時、猊下は氷河の中で冷凍状態だったので、この話はお弟子さんから聞いたのだと理解していました。
何故なら、パイロットババジ猊下は冷凍状態されていて肉体的には死んでいるのだから、ももこさんのことは弟子から聞いたのだろうと思っていました。

しかし、肉体は死んでいても、猊下のアストラルボディーは活動しているので、アストラル体がももこさんを見ていたのかもしれません。

「私が肉体を保存した場所は、何人にも邪魔されないようにロープで結界を作る。
その周りを弟子たちが24時間交代で見張るのだ。」

「ある時、ももこさんがやってきた。結界を見て興味を持った彼女は、見張り役の私の弟子に、これは何ですかと尋ねた。」

「私の弟子は答えた。これは「氷中サマーディー」と言って、この世界がマーヤ(=幻想)であり、生と死を超えた世界があることを証明するものです。
猊下は半年後にこの世界に戻られる。
戻る時は、冷凍されたお身体を日光で解凍するのです」
「この話に驚いたももこさんは、日本に帰国すると、週刊宝石という雑誌にレポートを投稿したのだ」

当時、週刊宝石は有名な週刊誌でした。週刊誌をまったく読まない私でも、その名前くらいは知っていました。

インド人の猊下の口から「週刊宝石」という名前が出たのも意外でしたが、話の内容が凄すぎて、言葉になりませんでした。
そして、そのももこさんが、私の目の前にいるのです。
ババジ猊下はシッディーパワーで私がももこさんに会うように仕向けたのに違いありません。

私は太母さんの使いでサイババに会いに来た。
そしたら太母さんの歌を歌っている女性に会った。
そしてババジと会ったことのある、ももこさんに出会った。
こういう体験をこれまで数百回している私には、とても分かりやすいババジとヒマラヤのアヴァター様方のお導きでした。

私はサイババがマハヨギ・パイロットババジ猊下をリスペクトしていることを思い出しました。
「そうだ!ババジ猊下にお願いしよう!」と心が踊りました。

すぐに私はデリーにあるババジ猊下のアシュラムに電話しました。
猊下は超多忙な方で、世界中を飛び回っています。
他の人がアシュラムに電話しても、いらっしゃらないことが殆どです。

しかし、私が電話した時や、私が猊下のアシュラムにお伺いした時は、猊下は何故か必ずいらっしゃいました。
猊下はシッディー(悉地と音写=神通力)で私から電話が来ることを知っていたのでしょう。
私はババジ猊下に事情を話しました。
「サイババと私を一対一でお会いできるような場を設けてほしい」とお願いしました。

猊下は「解った。これからサイババに電話するから心配するな!貴方はサイババに会えるよ」と仰いました。
私は興奮してお礼を言って、電話を切りました。

ホテルに帰った後、私は冷静になり、
猊下にお会いした時のことを思い出していました。
猊下のアシュラムに最初に行った時、私は、猊下にタントラマスターを紹介して欲しいと尋ねたことがありました。
あの頃私は、スートラには興味が無く、タントラに関心があったからです。

猊下は、「そうかそれではサイババが良いか?いま電話してあげるよ」と言いながら、手帳を取り出したのです。
私は慌てて、「いえいえ結構です結構です!」と叫びました。

すると今度は、「それではマハリシ・マヘシュヨギがいいか?」と言い出し、またもや電話しようとしました。
お二方とも、当時、世界で最も有名なマスターでしたので、私は慌ててお断りしました。

すると、今度は猊下に電話がかかってきました。猊下は1時間ほど、長い電話をされていました。
電話を切った後に、猊下はこう仰いました。
「今の電話は、インド首相のナラシマ・ラオからだ。彼は私の信者で、現在、或る問題があって、首相をやめるべきかどうか私に相談してきた。私は辞めるべきだと言った」

私は驚きました。その頃ナラシマ・ラオは金権問題で各方面から糾弾されていました。
インド中がそのニュースでもちきりでした。

たまたま読んだ新聞には「ナラシマ・ラオと田中角栄の比較論」という記事があったので印象に残っていました。

ナラシマ・ラオは田中角栄と同様に、権力を一手に集めていて反対派から糾弾されていました。
彼はあまりにも強大な権力を持っていたため、誰もが、首相を辞任することはないと考えていました。

しかし、猊下が首相に辞めるように指示した三日後に、ナラシマ・ラオは電撃的に首相を辞任しました。
私は、これらのことをホテルで思い出しました。

そして私はこう思いました。
「何を考えているのだ!ババジ猊下は一国の首相を辞めさせるほどの、大聖者じゃないか!そんな大聖者に対して電話一本でこんな大事なことをお願いするなんて、実に失礼じゃないか!
これからデリーのアシュラムにお願いしに行こう!」自分の愚かさに腹を立て、もう一度、電話をしに行きました。

猊下は私からの電話だと直ぐにお解りでした。
普段はお付きの方が電話を取るのに、猊下ご自身が電話を取りました。
スマフォと違って誰から電話が来たのか分からないダイヤル式の電話なのですから、相手は分からない筈です。

私は猊下に申しました。
「猊下のような偉大なマスターに電話一本であのようなことをお願いするのは間違っていました。
明日、飛行機でデリーのアシュラムに伺います。そこで正式にお願いいたします」

すると猊下は、驚くべきお答えをくださいました。
「貴方がこちらに来る必要はない。私が明日バンガロールに行く。空港で待っていなさい」私はあまりのお言葉に呆然としました。

何か重大な事が起こっているのは顕(あき)らかでした。私のスピリチュアル人生に決定的に大きい何かが起こっているという感覚に、私は打ち震えました。

後で解ったことですが、“たまたま”猊下の講演会がバンガロールで開かれていたのです。
偶然に次ぐ偶然でした。

しかし、これをただの偶然だと思う人はスピリチュアル世界にご縁が無い方です。
大きな力のお導きだと覚知できないのならまだ準備ができていないのです。
長くなるから大分端折って書きましたが、霊性の高い人なら誰でも了解する筈です。

この後も、色々、すったもんだが有りました。
簡単には猊下にお会いできませんでした。
私と友人は、待ち合わせの時間の前に、空港のゲートで猊下たち一行をお待ちしていました。

その当時のバンガロールの空港の降り口は、幅8メートルほどでした。
ここに目立つ格好の猊下が来たら、嫌でも目に付きます。それでも私達は油断しないようにウォッチングしていました。
ところが、飛行機が遅延して、待てど暮らせどやってきません。
飛行機の乗客は来たのですが、肝心の猊下はいらっしゃいませんでした。

後になって解ったのですが、猊下の一行は実はやってきていました。
それなのに、オレンジの法衣を着た猊下のお姿は見えなかったのです。
あり得ないことでした。

猊下は隠れ蓑を着たかのようにお姿を消していました。
私と友人は眼を凝らして降り口を見ていました。オレンジの法衣を着た修行者の姿を見失うはずはありません。

私は猊下にお会いできなくて、太母さんという覚者のメッセージを、サイババにお渡しできなかったら、大きなカルマをつくると考え必死になりました。
しかもマハヨギ・パイロットババジ猊下というサドゥー(遊行者)の最高指導者と会えなかったら、さらに酷いことになると、
必死になりました。

この必死さの創出が重要だったのです。
私は、この時まで世間的な関心に囚われていました。例えばそれは、恋愛などの世事でした。

しかし、この出来事で私は必死になりました。私は「猊下にお会いせねばならない!
覚者様との出会いの機会を逃せば、大きなチャンスを逃す!とんでもなく大きなチャンスを逃す!
恋愛を含め、世間的なことに拘泥していてはいけない!覚者様とお会いするのに、マインドで向き合ってはいけない!」
と心の底から真剣な気持ちになりました。

猊下は私をこんな気持ちにさせるために状況を創出されたのです。
太母さんがあの時、私をトイレに行かせず、マインドが崩壊する「状況」をつくったように。
私はこんなこともあろうと予感していたので、猊下が講演する会場の名前を伺っていました。
場所はカイラッシ・アシュラムという名だ。
バンガロールで一番大きい寺院だから誰でも知っているとパイロットババ猊下が教えてくれました。
これが実は仕掛けだったのです。レッスンだったのです。
私は空港のインフォメーションセンターに行きカイラシ・アシュラムはどこか聞きました。
すると「知らない」というのです。
私は「バンガロールで一番大きいテンプルだと聞いていますよ!」と食い下がりました。
すると空港職員はこう答えました。
「バンガロールには大きなテンプルが3つある。
1つはサイババアシュラムだ。
2つ目はシュリ・シュリ・ラジテンプルだ。
3つ目はシュリ・シュリ・ラビシャンカールアシュラムだ」サイババアシュラムでないことは間違いないので、私と博子さんは先ずシュリ・シュリ・ラビシャンカールアシュラムに行きました。
するとまたもや奇跡的な出来事が起こりました。
シュリ・シュリ・ラビシャンカールアシュラムのゲートで、OSHO(和尚)のマラを下げた三人のインド人の和尚系サンニャシンにばったり出会ったのです。
彼らはシュリ・シュリ・ラビシャンカールを訪問して帰るところだったのです。後10秒遅れていればOSHO(和尚)のマラに気がつかず会えなかったでしょう。
そこで知ったのですが、カイラシ・アシュラムはシュリ・シュリ・ラジテンプルの中に有るアシュラムでした。
シュリ・シュリ・ラジテンプルと言えば知らない人は居ないが、カイラシ・アシュラムを知っている人は少ないのだそうです。
我々は諦めずに必死になって探した甲斐がありました。
私が必死になったところで、漸くカイラシ・アシュラムに辿り着きました。
我々はそこでパイロットババ猊下にお会いできました。
必死になった後での出会いは、漫然としてお会いする時とは全く違います。

猊下は我々を猊下が宿泊しているホテルに招待してくださいました。
私が猊下にプラナーム(接足作礼)した後、パイロットババ猊下は開口一番こう仰いました。
「貴方はヨガナンダ・ギリの『あるヨギの自叙伝』を読んだことがあるか?」
私はヨガナンダ・ギリを知らなかったので知りませんとお答えしました。

猊下は続けてこう仰いました。
「あの本の中にクリヤヨガが紹介されている。
クリヤヨガは、一万二千年秘密のヒマラヤの秘法だ。
ヨガナンダをサマーディ(=ニルバーナ・真如)に導いたシュリ・ユクティシュワールジはその秘法でヨガナンダをサマーディに導いた。門外不出の秘密のヨガだ」

「しかし、愚かな弟子たちが秘密を漏らし、今ではハタヨガの呼吸法みたいになっている。本来のクリヤヨガはあんなものとは全然違う強力なものだ」

「ヨガナンダ・ギリを一瞬にしてサマーディに導いた彼のマスターであるシュリ・ユクティシュワール・ギリは解脱している。彼はクリヤヨガの正当な継承者だ」

「実は、私も伝説のヒマラヤのマスターであるハリ・ババジから正式の認可を受けている」

私が貴方に一万二千年年秘密のクリヤヨガを、3ヶ月間マンツーマンで指導する。だから私のアシュラムに来ないか?」

私はこのお言葉を聞いて、総てを理解しました。何故、太母さんが私にあまりご縁のなかったサイババのアシュラムに行かせたのか。

そこで太母さんの信者と出会い、その過程の中でももこさんに出会い、猊下に電話することになったのは何故か?

そして恰も、偶然のように、翌日に、猊下が北インドから南インドまで来ることになっていた。

総ての謎が解けました。猊下と太母さんは「仏仏想念」で計画されていたのだ。
私は猊下と太母さんの大慈悲に涙が出ました。

私はその頃、ある女性と関係性の問題で悩んでいました。
瞑想が進めば、存在は、神は、解りやすい問題提起をしてくれます。

世間的幸福というマーヤ(=幻想)を選ぶか、それともより高く神聖で美しい世界を選ぶかという二者択一を提起します。
私が世間を選んだ後は、必ず苦しみがやってきました。

私はこの時、ギリギリのところで、マーヤである「世間的幸福」を選びませんでした。
正確ではありませんが、お釈迦様が法句経で「世間での幸せは甘い。甘い分だけ苦くなる」みたいな事を仰っていました。

存在は「この人こそは!」と思える女性に出会うたび、二者択一でどちらをとるか選ばせました。

マインド的には苦しかったものですが、良き瞑想者にとって、リレーションシップ(=関係性)は必ず壊れます。
リレーティングにならなくてはいけません。

例えば、猊下のお側には若くて美しい女性がたくさん集まります。皆さんは猊下に恋しています。勿論、普通の恋愛感情ではなくスピリチュアルな恋愛感情です。
クリシュナ神に恋するゴピ達のような、ピュアな恋です。

この神聖な恋に、嫉妬や、独占欲、依存などの感情センターが入れば、その時点で美しい関係は終わります。
そうなれば、猊下の側にはいられなくなり下界に降ろされます。

ある美しい女性がアシュラムを離れ結婚しました。彼女は赤ちゃんを抱いていました。
私が「今は幸せに暮らしているのでしょう?」と尋ねると「ええ、とっても幸せです」と答えました。

でもその後、うつむきかげんになり、
「でも、ババジのお側にいた時の幸せとは全然違うの。時々物凄く辛くなる時がある。虚しくなる時がある」と打ち明けました。

そう言った後、彼女は慌てて、「今の話は内緒にしてよね!」と私に念押ししました。
しかし、彼女はその後、離婚したと聞きました。そして猊下のアシュラムにも来られない状況に陥ったそうです。
虻蜂取らずみたいな状況です。

私は、彼女の気持ちが痛いほど解りました。私も何度も同じ道を通りました。
誰しも通らねばならない道です。

私が運命の変わり目に差し掛かる時、存在はいつも美しい女性を遣わして、私を試します。
だから、美しい女性が現れた時は要注意です。とても解り易い。(笑)

私は猊下とゴピ達のような、嫉妬、所有、執着のないリレーティングを続けてきました。それで良かったのです。

感情センターやセックスセンターという低いセンターには注意を払わねばなりません。
私は、以前タントラを志向していた時期がありました。

しかし、「240日間不眠断食座禅」をして悟ったことは、一旦エナジーがセックスセンターに下がれば、それが上のセンターに戻るのに、3ヶ月もかかるということでした。
それ以来、私はタントラではなくスートラの道を歩まされました。
今はスートラもタントラも両方受け入れています。

猊下のアシュラムでも多くの良き求道者達が関係性の罠で、低い世界に堕ちていくのを見ました。

私は、あのようにならないように肝に命じてきました。
共に修行し、道を求めた同胞が堕ちていく姿を見るのは、とても辛く、切ないものでした。

かくして、私は内側に入り、アローンネスの修行を楽しみました。
内側の世界に深く在れた、アシュラムでの生活は、私の生涯で最も輝かしい一時でした。

Aum Namo Shivae

サンカルパヨガ・ファンデーション代表 
スワミ・アディティヤナンダ・ギリ

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